足立学園

2009年12月 6日 (日)

東京都24地区対抗

不意に依頼がありまして、本日、開催された
東京都24地区対抗大会北区チーム監督として参加してきました。

当初は引き受けるか否かで迷ったのですが、せっかくの地元北区からの依頼です。
恩返しをするつもりで引き受けさせていただきました。

北区は昨年1部で1コケしてしまい、2部からの再スタートです。
決勝まで進出し、1部返り咲きが至上命題でした。

それならばと、僕が出たいところではありますが、初段から三段までの
編成で指定されていますので、今回は監督に徹しました。
監督の僕を含め、メンバーは全て足立学園の在校生とOBです。

先鋒:加藤(足立学園)
次鋒:前原(足立学園)
中堅:塚崎(武蔵大学)
副将:清水(足立学園OB会)
大将:関矢(中央大学)

重量級のいない決して大きくないチームです。

初戦、いきなりの文京区です。
選手は講道館少年部OB、そして監督は向井氏!色んな意味で強敵です。

僕は試合前、選手達にこんなことを言いました。
「まず怪我をしないこと、試合を楽しむこと、その上で次ぐに繋がるような試合をすること」

若干1名を除き、選手はリラックスムードで試合の臨めたと思います。
リラックスし過ぎ、緩くなった次鋒は初戦、瞬殺されて返ってきましたが・・・sweat02

2-2の内容負けで廻った大将戦、北区は関矢の登場。
足立学園時代は3年間指導しましたが、キャプテンも務めた頼れる男です。
対する文京区大将はトレセゲ!留学生です。

序盤、関矢得意の内股がまたの中でかわされてしまい、
チームに敗色ムードが漂い始めました。
しかしそこは関矢、気合いが違います。
終盤、有効、技ありと内股で立て続けに奪取し、最後は意表をつく背負投で一本勝ち。
チームを3-2の逆転で勝利に導きました。

2回戦は中野区と対戦
ここは次鋒が鍵でした。
相手はレスリングスタイルのような掬投、朽木倒を得意とする選手
低い姿勢で相手の技を待っています。
先ほど瞬殺された次鋒・前原にはこんな助言をしました。
「相手はお前の技を返すのを待っている、だから奥襟を持ったら技を掛けずに待ってろ!」

こんな冗談みたいな助言ですが、相手は本当に待ったまま仕掛けて来ず、
姿勢が悪いために反則が累積されていきます。結局、注意(?)での優勢勝ち。
チームは勢いに乗って5-0で大勝しました。

準決勝は目黒区との対戦
中堅、副将に大型の選手を揃え、明らかに強豪チームでした。
しかしここで勝ち、決勝に進めなければ1部昇格はありません。
難敵ではありますが、勝負所です。

この辺まで来ると、普段の稽古量がものを言うようになります。
過去に強かった選手でも、稽古を怠っていればバテてきます。
その点、足立学園の在校生は稽古量が半端ではありません。
立ち技の乱取り8分12本とか普段からやっています。
その点の地力が、他校との違いだと思います。

エンジンの掛かってきた先鋒:加藤、次鋒:前原が勝ち、勝利を近づけます。
しかし!目黒区の本領発揮はここからです。中堅、副将が強い!
僕は思わず「怪我するようだったら無理しなくていいからね」
そんなことを言ってしまうほど、体格差があったと思います。
北区の中堅:塚崎、副将:清水は現在、柔道よりも勉強主体の生活をしています。
それだけに、無理は言えませんでした。

それでも彼らは頑張ってくれました。
中堅:塚崎が意地を見せて引き分け、副将:清水は優勢負けで大将:関矢に繋ぎ、
関矢は見事に一本勝ちし、3-1で決勝進出を決めたのです。

決勝戦は江戸川区との対戦
これまで、順調に勝ち星を稼いでくれた加藤ですが、ここで引き分けられてしまいます。
北区としては、これはちょっと辛い引き分け。

しかしここで驚異のマイペース男、前原が頑張ります。
長身の身体から繰り出される、のんびりした技が、相手にのんびり掛かります。
さしずめ「柔道部物語」の大脇選手(江南高校)のような選手です。
彼はまだ高校1年生ですから、これからも期待できる選手です。
北区は彼のお陰で、値千金の1勝を得ることが出来ました。

中堅:塚崎は疲労が蓄積する中、果敢に攻め続け、引き分けて後ろに繋ぎます。

副将:清水は、体格差がある中、寝技を中心に必死に食い下がります。
稽古不足と体格差という苦境の中、内容負けに抑え、大将に繋げます。
ここで一本負けせず、1-1でも内容差で勝っている状況で大将に繋げたのは、
非常に意味のある内容負けだったと思います。

そして大将:関矢
彼の責任感の強さ、根性は折り紙つきです。
個性派のメンツが揃った足立学園同期の中で、彼がキャプテンを務めたのは
それだけの「気持ちの強さ」があったからこそです。

かなりの体格差がある中、果敢にも攻め続け、背負投で有効を奪取、
終盤、追い込まれて注意を奪われてしまい、引き分けになってしまいましたが、
北区チームは優勝を飾ることが出来ました。
1部昇格、そして初優勝!
僕自身も、初めて監督を任され、初の優勝でしたribbon

正直、ポイントゲッターのいないこの中軽量級メンバーが優勝するとは思いませんでした。
選手個々が、それぞれの持ち味を生かし、団結して挑んだ結果が、
ミラクルとも思える好結果をもたらしたのだと思います。
まとまりのない寄せ集めチームではなく、足立学園という共通項のあるチームだったからこそ、成し遂げることが出来たのだと思います。
選手には心からお礼を言いたいと思います。ありがとう!scissors

Ssany2455_2

最後に「監督、優勝おめでとう!」なんて言われているウチに、
危うく勘違いしそうになりましたsweat01
頑張ったのは選手であって、間違っても僕の功績ではない。
「監督が優勝させた」なんて勘違いをしてしまったら、大変な間違いを犯してしまう。
そう思い、心を新たにしました。

選手以外に功績を称えるならば、僕や選手達を育てた
徳原勉先生(足立学園柔道部監督)に他ならないでしょう。
Dscf0970_1


優勝後、感極まりそうになり、下唇をギュッと噛み締めて耐えていたところ、
帰宅したらもの凄く真っ青に腫れ上がっていました。別の意味でも泣きそうcrying

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年11月11日 (水)

引退報告

先日、ある教え子から一本の電話がありました。

「先輩、今日をもって柔道を引退します。今までありがとうございました」

爽やかな引退表明、しかし言葉の重みや彼の努力を察するに、
僕の胸は厚くなり、短い言葉を返すことしかできませんでした。

ただ一言 「お疲れさんでした。じゃあ、ご飯でも食べに行こうよ」

彼は足立学園時代、僕の教え子でした。
また教え子であると同時に、地元の道場からの後輩でもありました。
だから彼は僕を親しみも込めて「先輩」と呼びます。
05kinnsyuuki2

彼が高校時代、都大会で2位になったことがありました。
2位ももちろん立派ですが、全国大会に出場することは出来ません。

「いつも2位だ・・・・」

そう言って泣きじゃくる彼に僕はこう言いました。

「努力は絶対に報われる!大学では結果が出るから、自分を信じろ!」

僕の言葉を覚えていたのかどうかは分かりませんが、大学進学後も彼は、
本当によく頑張っていたと思います。

だからこそ、本人がもっと喜ぶような実績を残させてあげたかった。
それが残念であり、また勝負の厳しさでもあると痛感しています。

努力しているのは1人だけではないし、試合に出る者みんなが勝ちたいですから、
そこを勝ち上がるのは容易なことではありません。

新しいフィール出に向かう彼には、心から「活躍して欲しい」と願うばかりでなく、
これからも良き理解者でありたいと、思わずにはいられません。

■まもなく発売■小室宏二 柔道固技上達法 上巻 [DVD]

■12/20発売・予約受付中■小室宏二 柔道固技上達法 中巻(仮) [DVD]

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年7月11日 (土)

2005年教員大会の巴投

2005年、足立学園で講師をしていた頃に出場した教員大会の映像です。
映像を提供していただいたSさん、ありがとうございました!

この頃は足立学園で毎日練習できていましたので、
身体は相当に動けていました。
教員大会にも初出場だったので気合い入っていましたし。

相手の佐藤選手は、その前の試合でいい動きをしていたので、
僕も全力で臨ませてもらいました。
組んですぐの巴投は、たまたま入った感じですが、巧く決まりました。
投げた後、すかさず極めに行くところは、寝業師として必須の技術です。

いま、DVDに挿入するための動画を集めているんですが、全部で30試合は超えそうです。
試合映像を見るだけでも楽しんでもらえそうです。

ただ、もう若くて強い選手が東京都にも入ってきたので、僕の出番はなさそうです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

優勝旗

『インターハイ』
といえば柔道を志す高校生が誰しも目指す、夢の舞台です。
さらにそのインターハイで優勝ともなれば、
それはもう天下を取ったような世界でしょう。
優勝どころか、一度もインターハイに出られなかった僕にはそう見えました。

1年は3位
2年は2位(代表になった堤選手は本大会でも優勝)
3年はベスト8(内柴選手に抑え込まれるなどして判定負け)

徳原先生が奉職し今年で33年になりますが、
ようやくこの優勝旗が、足立学園にやってきました。
歴代のOBが何度となく挑戦し、たどり着けなかった境地です。

その天下の証、インターハイの優勝旗を触ってみました(笑)

Sany1324_2

まるで本当に優勝したかのような笑顔です。
これが欲しかったんですnote

でも欲しかったコレが獲れなかったから、大学時代に頑張れたというのもあるはずです。
モチベーションの維持とは難しいモノです。

今回は、僕の他に同期が2人出席していました。
伊藤(60kg級、インハーハイ予選決勝で内柴に敗れる)
高橋(71kg級、インターハイ本戦で3位)

5 「お前らインターハイ優勝出来なかったんだから、記念に触ってこい」
高「お前こそ、インターハイすら出てねーだろannoy
5 「伊藤なんか内柴に負けて泣いちゃってよ」
伊「お前なんか抑え込まれて負けただろ!」
5 「良いから早く並べ!記念撮影するぞ♪」
という具合になって撮ってみましたmovie
Sany1323 Sany1325

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年6月17日 (火)

きくちゃん

おめでたいお話ですribbon
僕の同級生・キクちゃん(足立3中&足立学園)が結婚します。

Kikuta

中学1年の時、同じクラスだったキクちゃんを
脅かして柔道部に入部させました。

勧誘ではなく、脅迫して入部させました。

結局、キクちゃんは「辞めなかったんじゃなくて、怖くて辞められなかったsweat02
と言って、大学卒業まで10年間、柔道をやりきりました。

そんなキクちゃんが結婚します。コブー(中学時代のあだ名)のくせにannoy

「俺の人生を変えた出会いだったから、コムちゃんスピーチしてよ」

本当に脅迫しただけだったのに、そんな風に言ってくれました。
もちろん緊張しますが、快諾です!

気合い入れずにはいられません。
一肌脱ぎます!
てゆーか脱ぎます!

709250_4174975184s (中央5669、右がキクちゃん。正和の披露宴にて)

と言ったら「結構、立派な式場だから、脱ぎ系は勘弁して」とのこと。。。

足立学園の教員時代、徳原先生から学んだことのひとつに、
人との義理を大切にする
と言うのがあります。

僕も友人の冠婚葬祭は何が何でも参加するつもりです。

しかし・・・・

今回、講道館の夏期講習会(1部)とバッティングしてしまい、
どうしても、どうしても参加することが出来ません。
スピーチに関しては涙あり、笑いありの絶妙な演出を企画していたのですが。。。

そんな訳で、結婚式の二次会には遅れて参加し、
またその報告をここでしたいと思いますが、
彼にまつわるエピソードを。。。

足立3中に進学した僕らに、徳原先生はこう言いました。
「お前達だけじゃ少なすぎる。一人につき、一人一般生徒を勧誘してこい」
僕たちは徳原先生が中学から強化を始めた最初の生徒です。
なので部員が殆どいませんでした。稽古相手の確保です。

僕は「こむろ」
キクちゃんは「きくた」

出席番号順では僕の1コ前でした。
手っ取り早く、僕はキクちゃんを勧誘しました。

キクちゃんは当初、「RPG研究会」という訳の分からない
オタクっぽいクラブに入ろうとしていましたが、
「おい、柔道部入らないとどうなるかわかってんのか」
的な猛烈な勧誘で、渋々入部を決めました。

素人のキクちゃんが、打倒・国士舘中、弦巻中を目指す
集団で稽古するのは筆舌に尽くしがたく、辛かったと思います。

稽古相手は僕らか、足立学園の高校生です。
殆ど投げることなく、一日の稽古を終わることも多かったでしょう。
絞技から逃れる練習では、悲鳴を上げながら何度も絞め落とされていました。
立ち技乱取りでは、頭を打つ度に「菊田は受身のやり直し100回!」
と言われ、スポンジの着いたヘッドギアをして稽古をしていました。

前述のように、怖くて『辞めたいって言えなかった』というキクちゃん。
そんなキクちゃんも、徐々に力を付けていきました。

どういうわけか関西の大学で柔道を続けたキクちゃん。
4年生の時にはとうとう「全日本学生体重別」の73kg級に出場しました。

僕とキクちゃんは、すぐ近くの控え室で、
試合の前後でお互いに声を掛け合いました。

キ「減量にビビって体重落とし過ぎちゃったよ」
5「俺も階級上げたら、65kgしかなかったよ」

キ「1回戦勝った?」
5「勝ったよ。もう1つ頑張ろっ!」

いつもお調子者的存在のキクちゃんが居たので、
なんだかリラックスして試合に挑めたことを覚えています。

先日、足立学園に行くと、新入生を見ながら徳原先生がこんなことを言っていました。

徳「こいつは強くなるかな~?」
5「辞めずに続いたら、モノになりますよ」
『そうだな。菊田も受身から初めて強くなったモンなぁ』

キクちゃんにまつわるオモロー!な話しは、二次会に参加した後、
また書いてみようと思います。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

平爺を偲ぶ

前回は平爺との思い出(「平田鼎-寝業研究会-伝説編」)を書きました。

いつもの文章は、このブログを見ている多くの方に発信していますが、
今回限りは、天国にいる(もしかしたら地獄?)平爺に捧げたいと思います。

平田 先生
足立学園の道場で先生と出会って、もう20年近く刻が経とうとしています。
あの時の出会いが僕の柔道だけでなく、柔道に関わる人生そのものを
変えてしまうとは、その時は知る由もありませんでした。

先生から教わった6年間、足立学園での6年間、
これは僕の柔道の根幹を築いた6年間でした。

絶えず努力すること、堪え忍ぶ心、研究心、そして高専柔道。

僕は高校時代、先生の高名どころか、「高専柔道」という言葉すら、知りませんでした。
いつも驕り高ぶらず、マイペースで稽古をするので、
ただの爺さんだと思っていました。すいません。

「寝技は足だ、足を使え」
「十字は膝でとれ」
「馬鹿じゃ強くならん、勉強しろ」

「おやすみ~」(絞め落とすとき)
「空気は旨いか?!」(絞技から逃れたとき)
「おはようさん」(絞め落とされて、目が覚めたとき)

先生が仰った言葉は、頭の中に焼き付いています。

なかでも筑波大学への進学が決まったとき、先生は
「もう小室!なんて呼び捨てには出来ないな。立派になった」と仰いました。
何度止めてくれと言っても、先生は敬語で接するようになりましたね。
それが1つ、先生から僕への免許皆伝だったのかも知れません。

僕は先生から教わった技術をもって、大学で寝業師になりました。
この時、寝業師になったことが、僕の柔道観を変え、競技成績を押し上げました。

今僕がこうしていられるのは、間違いなく先生から教わった
高専柔道の技術があったからこそです。

そういえばひとつ、先生に謝らなければならないことがあります。
先生が教わった技術、これを勝手に「コムロック」(小室式固技)と名乗っています。

151987854_8 225194720_4

これは先生から教わった高専柔道の技術です。
でもどういうわけか、こう呼ばれるようになり、また僕自身の愛称としても
「コムロック」が認知されるようになり、そのまま使わせていただいています。

講道館に勤務するようになり、全然知らない人から
「君が平田先生の弟子か!?」
「君のような寝技をするお爺さんが昔、講道館に来ていたよ」
「小室は生前の平田先生のような背中をしている」
そんな風に言われることがあり、嬉しくもあり、気恥ずかしい気もします。

先生が伝えてきた技術は、寝業研究会の皆さん、DVD映像が受け継ぎ、
また僕自身も、講道館に勤務しながら、高専柔道の技術を伝えていくこと、
これが僕なりの、恩返しだと思っています。

どうか天国から(もしかしたら地獄から)僕らを見守っていてください。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月 7日 (水)

平田鼎-寝業研究会-伝説編

ラオスでお世話になった菊地先生が一時帰国しています。
そして僕に『平田鼎先生の追悼集』をくれました。

平田先生が亡くなられてもう10年くらいが経ちます。
そこで僕も、この追悼集をきっかけに平田先生について書いてみようと思います。

Sen3平田先生はこんなお爺さんでした。

平田先生との出会いは小学6年生の時でした。
東京・北区にある佑道館に所属していた僕は、
足立3中への進学を決めていました。

足立3中では実質、部活は行っていなくて、
部員は足立学園に移動し、高校生と練習していました。

なので僕も、佑道館の万代(まんだい)先生に連れられ、
足立学園に出稽古に行きました。
そこに平田先生は来ていました。

万代 「平田先生、この子をお願いします!」
5669 「お願いしますhappy02
平田 「お~お~任しとけ」

そんな会話があったことを覚えています。
そんな縁があって、僕は平田先生に可愛がられました。
可愛がられたと言っても、ご飯をご馳走になったとか、
お小遣いをもらったとか言う「可愛がり」ではなく、
『時津風部屋の可愛がり』と同じようなモンです。
 ※ビール瓶で殴られたりはしませんでしたけど・・・

僕たちは平田先生のことを平爺(ひらじい)と呼んでいました。
何気に徳原先生もコッソリ「平爺」と呼んでいました。

平爺伝説は沢山あります。
伝説のいくつかをご紹介しましょう。

>手ぬぐい
平爺は練習後、かならずシャワーを浴びます。
足立学園の道場は2階、シャワー室は1階です。
その間、道場からシャワー室まで手ぬぐい1つで移動します。
ほぼ全裸に近い格好です。

足立学園が男子校とはいえ、お母さんが来ることもありますし、
女性教諭もいます。僕らの時代は先の選抜体重別(女子78kg級)で
準優勝した平岡麻美選手もいました。
それでも手ぬぐい1つで校内を闊歩するのです。

ある時、平爺と剣道部の顧問が、シャワー室で一緒になりました。
平爺は腰が曲がり、よたよたと歩くのですが、不意に床に滑り、
大きく転倒しました。

『あ、死ぬ!』

剣道部の顧問(近藤先生)が思った瞬間、
パチーンという音と共に、受身をとった平爺がすっと立ち上がり、
何食わぬ顔で歩き出したそうです。

>戦争体験
ある先輩から、平爺の戦争体験を聞きました。
戦地で、銃の弾が切れ武器も失い、敵兵と相対したそうです。
平爺は咄嗟に引き込み、三角絞で相手を絞め落とし、難を逃れたとか。
この伝説は多分、眉唾です(笑)
でも、そんなことを高校生は信じてしまうほどの寝業師でした。

>クリーニング事件
平爺は道衣を洗わない人でした。
日が経過すると、それはもう溢れた牛乳を拭いた雑巾のような匂いすらしました。
当然、高校生は乱取りするのを嫌がりました。
だって臭いし、絞め落とされるから。

本人も、道衣の臭さに耐えかねると、平爺係(そういう係がありました)に
道衣の選択を頼むのです。僕の同期では、ヒロナリが平爺係でした。
Photo
ある時、平爺の道衣が見あたりませんでした。
平爺が来たら、すぐさま干してある道衣を差し出さなきゃなりません。
ヒロナリは焦り、咄嗟にキクちゃんの道衣を貸してしまいました。

平爺は昔の人です。
道衣のズボンはスパッツなんか穿きません。直です。

キクちゃんは怒りました。
キク「なんで勝手に貸すんだバカヤロー!」
ヒロ「だって無かったんだから仕方ないじゃないか」

そんなやりとりの末、ヒロナリが洗濯することで落着しました。
但し、洗濯機ではなくクリーニングに出して、アイロン掛けまでさせること。

僕らは道衣をクリーニングに出すなんて、聞いたこともなかったので、
大笑いしていました。
それでもクリーニング店に持っていったヒロナリ。
なんと引き受けてくれたそうで、キクちゃんの道衣はキレイにアイロン掛けされ、
戻ってきました。

>平爺ビデオ

ある時、誰かが「平爺がビデオ出したらしいよ」と言いました。
僕たちは大笑いし、誰一人としてそれを信じませんでした。


本当に僕たち、もちろん僕自身、卒業するまで平爺の偉大さを知りませんでした。
寝業好きの爺さん、話し好きの爺さん、たまに変な技を魅せる爺さん
その程度の存在でした無かったのです。

だから有名選手のように、ビデオを出すなんてあり得ない!
そう思って誰も信じなかったのです。

まさか本当に出していて、それ以前に、ある方面では神格化されるほど、
寝業の大家だとは知る由もありませんでした。

ただこのDVDを見て思ったことは、このDVDがあるから、
平爺が亡くなっても技術(映像)は消滅しない
とい思ったのです。

これは僕にとって強烈な印象を残しました。
だからこそ、僕も身体が動く今のウチに、
技術を解説し、それを自ら披露したものを
形に遺しておきたい。そう思ったのです。

少し大げさな話しではありますが、
今日、交通事故か何かで僕が死んだとしても、
コムロック、袖車絞といった技術はある程度、伝承されていく。
特に柔道界では山嵐なみに消滅しかかっている
袖車絞という技術が、実戦的な技術として紹介され、
またそれを実践で極めた映像として残っている。
それって結構、重要なことだと思っています。

最後に、僕が寝業で施している技術はそう多くありません。
袖車絞、コムロック、あとは腕挫十字固と横四方固くらいでしょうか。

柔術を学び、色んな技術を吸収してきましたが、
結局、今現在、僕が一本を取れる技術は
平爺から教わった高専柔道の技術が殆どです。

そう思うと、平爺には感謝しきれない部分と、
高専柔道の奥深さを感じずにはいられません。

次回は僕も、平爺へ追悼文を書きたいと思います。


| | コメント (13) | トラックバック (0)

2008年1月13日 (日)

守屋先輩の名札板

足立学園の在校生は知らないかもしれない。
多分知らないだろうな。。。

Dscf222111111111_2

足立学園の徳原先生は、
「学舎や国士舘に対抗するには中学生から6年強化する必要がある」
ということで、小学6年生をスカウトし、
足立3中に入学させて、練習を足立学園で行いました。

その初代が僕たちの代でした。
(足立学園中は翌年、設立されました)

初代の僕たちは中2,中3の先輩がいません。
(中3生が1人だけいましたけど)

高校生の集団に、中学1年だけが加入したので、とても可愛がってもらいました。
特に僕は中学1年の頃、どう見ても小学生だったので、
本当に良く可愛がってもらいました。
それはOBからも同じでした。

ある先輩は、いつも頬が真っ赤な僕を見て『ペコ』と名付けました。
不二家のペコちゃんと似ていたんだそうです。

その先輩は守屋正一郎と言い、現役時代は
八王子高校だった小川直也選手に勝ったりしていたそうです。

ペコ「先輩、小川選手に勝ったそうですね?!」
守屋「あいつはあの頃、大したこと無かったんだよ。ペコと同じだな」
ペコ「ムキー!」

そんな感じでかまってくれていました。
アイスやご飯、ジュースもよく奢ってくれた覚えがあります。

なぜ大学まで柔道を続けなかったのかと聞くと、
『柔道なんかもううんざりだよ、男通しで抱き合って気持ち悪い(笑)』
そんな風に笑い飛ばしていました。豪快な人でした。

僕が大学院を卒業し、講師として就任すると、
まず目をひいたのが道場にある大きな名札板でした。
(名前なんて言うんでしょうか?)

徳原先生に聞くと、それは守屋先輩からの寄贈でした。
あれだけ大きな名札板になると、100万円位しちゃうそうです。

5669『さすが守屋先輩、太っ腹ですね♪今何をしているんですか?』

徳原『死んだよ。電気関係の仕事をしてて、感電しちゃってな・・・』

衝撃でした。
まだ40代前半だったと思います。
守屋先輩の遺産(?)慰謝料(?)を母親が持ってきて、

「あの子があったのは、足立学園柔道部があってのことです」
といって、大金を遺していってくれたそうです。
それがあの名札板です。

そういった先輩達の支えがあって、いまの活動があるという現実。
それを現役生はもちろんのこと、他のOBもよく覚えておいて下さい。

正月、少しずつ増えていく戦績と生徒の名札
それを見て守屋先輩を思い出しました。合掌。

もうじき、高校選手権の予選(1/20)、そして都大会(1/27)が始まります。

頑張れ足立学園生!

 



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年12月11日 (火)

代表戦(後編)

それでは後編になります。(前編はコチラ)

代表戦として思い出深い試合をいくつか。

■高校3年のインターハイ予選■
都大会の準々決勝戦、僕たちは世田谷学園と対戦しました。
その年の世田谷は、金鷲旗でも優勝しており、
例年通り、優勝候補でした。

戦前、僕は徳原先生のこう聞かれました。
「宏二、本郷との勝負、左の相四つだけど、できるか?」

本郷選手は翌年、インターハイ(重量級)でも優勝しており、
その時のポイントゲッターでもありました。しかも僕と同じ左組です。
苦戦は免れませんでした。

しかし、僕は即答しました。「やれます!」と。
次鋒で出場した僕は、組み手に妥協することなく、
しつこく寝技に引き込み、引き分けに持ち込みました。

そのほかの選手も、妥協することなく接戦を凌ぎきり、
0対0の代表戦までもつれ込みました。

世田谷の代表は本郷選手、足立学園の代表は田崎選手が出ました。

軽量級軍団の足立学園は、爆発的な破壊力がありません。
唯一、全国レベルの中重量級と勝負できるのは、
田崎選手しかいませんでした。
まちがいなく、足立学園の切り札でした。
僕たちはこの大一番、彼に託しました。

結果は判定負け。僕たちは最後まで、
世田谷、国士舘の壁を破ることが出来ませんでした。

今でも、田崎(今は道都大学の監督)と話すと、この話題になります。
彼の柔道人生において、もっとも悔やまれる試合がソレらしいです。

でも、ウチにとっての切り札、世田谷にとっての切り札、
それぞれが出て、結果が負けなら仕方ないと、僕は思います。
「世田谷を倒してインターハイにいける!」
そう思えた、貴重な一瞬でした。

■教員3年目の代表戦■
それからちょうど10年後、僕は足立学園の教員になりました。
高校1年生から教え始め、その子達が3年生になったとき、
良いチームが育ちました。

都大会の準決勝、国士舘との対戦です。
1-1の同点で、この試合も代表戦になりました。

誰を選ぶのか?
徳原先生と考えました。

国士舘は重量級がそろっていましたが、中量級の西田選手を擁しています。
足立学園の子達は、軽量ですが重量級との試合を苦にしません。
逆に技もキレ、動きも速い西田選手のような選手が苦手だったりします。

代表戦は間違いなく、西田選手を予想していました。

対西田選手を想定したとき、足立学園には1つの切り札がありました。
ホームランバッター齋藤です。
彼は5月の団体戦、西田選手に一本勝ちしていました。
しかし、その日の試合でも西田選手と対戦していたのですが、
ここでは組み手を完封されてしまい、逆に負けてしまいました。
もう一度やっても、おそらく適わない。

得点をあげたキャプテンの関矢もいましたが、彼は副将で出ており、
スタミナを消耗していました。

眠れる天才、太田はメンタルが弱いので代表戦にはちょっと。。。。

残ったのは河野雄司でした。
(インターハイ73kg級3位、全日本ジュニア2位、現ジュニア強化選手)
中学時代から、大きな舞台で勝負している彼なら気持ちも強い。
鍛え上げられた身体は西田にも力負けはしない、
破壊力のある肩車なら、もしかしたら一発決まるかもしれない。

しかし、結果的には大内刈から内股への連絡技で、
河野は大きく弧を描き、一本負けを喫しました。

やっと辿り着いたチャンス、なかなか越えられない壁。
選手の悲しみ、徳原先生、僕の悔しさは相当なモノでした。
徳原先生が涙を流す姿を見たのは、久しぶりでした。

足立学園生の諸君
徳原先生を団体戦で全国に連れて行ってやってくれ!

■シロクマ君■
先日、足立学園に小学生を連れて行ってきました。
僕が教えていた中学生達も、中学3年になり、高校生になり、
知らない顔もチラホラいるようになりました。

あの時のシロクマも、もう今春、卒業します。
あの時の経験が、彼にどう影響したのか、
それは今となっては計り知れませんが、
教員となって、初めて経験した思い出深い代表戦でもあります。

 2004.5/23 『勇気と努力のシロクマ君』

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

どっちを選ぶ?!

7/22日曜日、久しぶりの休みでしたが、
中学生の都大会があったため、一路、東京武道館へ。

その昔、我が足立3中は国士舘を破り、準優勝しました。
あの時、国士舘に勝ったことで浮かれていた僕たちに、
バチバチと活を入れ、『まだ(弦巻中との決勝が)1つ残ってる!』
と怒鳴っていた徳原先生の頬に、涙が伝っていたのをよく覚えています。

また僕は個人戦55kg級で優勝し、全国へと進みました。
なんとも思い出深い大会です。

7/21土曜は個人戦があり、結果的に講道館で練習する中学生は
2名が優勝し全国へ、足立学園の方は2名が関東大会出場を決めました。
途中、講道館の勤務時間になり、後ろ髪を引かれる思いで出勤しました。

団体戦は最後まで見てやろうと思い、意気込んで行きましたが、
困ったことに、3回戦あたりで足立学園と、講道館で練習する
多くの中学生が通う文京1中が対戦するハメになりました。

こういう時はどうするかって?

帰りました。。。

どっちの生徒も応援してあげたいし、勝たせてあげたい。
でもそれは出来ない。
それに応援席が両校で隣同士なんですよね。。。
居場所もない。
そんな訳で退散しました。ごめんなさい。

私と柔道、どっちが大切なの?!

というような問いには答えられません。
だって人とスポーツは比べられるモノじゃないから。
強いていうなら両方大事ってトコかな。(日本人的な発言だな・・・)


| | コメント (7) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧