足立学園

2008年6月17日 (火)

きくちゃん

おめでたいお話ですribbon
僕の同級生・キクちゃん(足立3中&足立学園)が結婚します。

Kikuta

中学1年の時、同じクラスだったキクちゃんを
脅かして柔道部に入部させました。

勧誘ではなく、脅迫して入部させました。

結局、キクちゃんは「辞めなかったんじゃなくて、怖くて辞められなかったsweat02
と言って、大学卒業まで10年間、柔道をやりきりました。

そんなキクちゃんが結婚します。コブー(中学時代のあだ名)のくせにannoy

「俺の人生を変えた出会いだったから、コムちゃんスピーチしてよ」

本当に脅迫しただけだったのに、そんな風に言ってくれました。
もちろん緊張しますが、快諾です!

気合い入れずにはいられません。
一肌脱ぎます!
てゆーか脱ぎます!

709250_4174975184s (中央5669、右がキクちゃん。正和の披露宴にて)

と言ったら「結構、立派な式場だから、脱ぎ系は勘弁して」とのこと。。。

足立学園の教員時代、徳原先生から学んだことのひとつに、
人との義理を大切にする
と言うのがあります。

僕も友人の冠婚葬祭は何が何でも参加するつもりです。

しかし・・・・

今回、講道館の夏期講習会(1部)とバッティングしてしまい、
どうしても、どうしても参加することが出来ません。
スピーチに関しては涙あり、笑いありの絶妙な演出を企画していたのですが。。。

そんな訳で、結婚式の二次会には遅れて参加し、
またその報告をここでしたいと思いますが、
彼にまつわるエピソードを。。。

足立3中に進学した僕らに、徳原先生はこう言いました。
「お前達だけじゃ少なすぎる。一人につき、一人一般生徒を勧誘してこい」
僕たちは徳原先生が中学から強化を始めた最初の生徒です。
なので部員が殆どいませんでした。稽古相手の確保です。

僕は「こむろ」
キクちゃんは「きくた」

出席番号順では僕の1コ前でした。
手っ取り早く、僕はキクちゃんを勧誘しました。

キクちゃんは当初、「RPG研究会」という訳の分からない
オタクっぽいクラブに入ろうとしていましたが、
「おい、柔道部入らないとどうなるかわかってんのか」
的な猛烈な勧誘で、渋々入部を決めました。

素人のキクちゃんが、打倒・国士舘中、弦巻中を目指す
集団で稽古するのは筆舌に尽くしがたく、辛かったと思います。

稽古相手は僕らか、足立学園の高校生です。
殆ど投げることなく、一日の稽古を終わることも多かったでしょう。
絞技から逃れる練習では、悲鳴を上げながら何度も絞め落とされていました。
立ち技乱取りでは、頭を打つ度に「菊田は受身のやり直し100回!」
と言われ、スポンジの着いたヘッドギアをして稽古をしていました。

前述のように、怖くて『辞めたいって言えなかった』というキクちゃん。
そんなキクちゃんも、徐々に力を付けていきました。

どういうわけか関西の大学で柔道を続けたキクちゃん。
4年生の時にはとうとう「全日本学生体重別」の73kg級に出場しました。

僕とキクちゃんは、すぐ近くの控え室で、
試合の前後でお互いに声を掛け合いました。

キ「減量にビビって体重落とし過ぎちゃったよ」
5「俺も階級上げたら、65kgしかなかったよ」

キ「1回戦勝った?」
5「勝ったよ。もう1つ頑張ろっ!」

いつもお調子者的存在のキクちゃんが居たので、
なんだかリラックスして試合に挑めたことを覚えています。

先日、足立学園に行くと、新入生を見ながら徳原先生がこんなことを言っていました。

徳「こいつは強くなるかな~?」
5「辞めずに続いたら、モノになりますよ」
『そうだな。菊田も受身から初めて強くなったモンなぁ』

キクちゃんにまつわるオモロー!な話しは、二次会に参加した後、
また書いてみようと思います。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

平爺を偲ぶ

前回は平爺との思い出(「平田鼎-寝業研究会-伝説編」)を書きました。

いつもの文章は、このブログを見ている多くの方に発信していますが、
今回限りは、天国にいる(もしかしたら地獄?)平爺に捧げたいと思います。

平田 先生
足立学園の道場で先生と出会って、もう20年近く刻が経とうとしています。
あの時の出会いが僕の柔道だけでなく、柔道に関わる人生そのものを
変えてしまうとは、その時は知る由もありませんでした。

先生から教わった6年間、足立学園での6年間、
これは僕の柔道の根幹を築いた6年間でした。

絶えず努力すること、堪え忍ぶ心、研究心、そして高専柔道。

僕は高校時代、先生の高名どころか、「高専柔道」という言葉すら、知りませんでした。
いつも驕り高ぶらず、マイペースで稽古をするので、
ただの爺さんだと思っていました。すいません。

「寝技は足だ、足を使え」
「十字は膝でとれ」
「馬鹿じゃ強くならん、勉強しろ」

「おやすみ~」(絞め落とすとき)
「空気は旨いか?!」(絞技から逃れたとき)
「おはようさん」(絞め落とされて、目が覚めたとき)

先生が仰った言葉は、頭の中に焼き付いています。

なかでも筑波大学への進学が決まったとき、先生は
「もう小室!なんて呼び捨てには出来ないな。立派になった」と仰いました。
何度止めてくれと言っても、先生は敬語で接するようになりましたね。
それが1つ、先生から僕への免許皆伝だったのかも知れません。

僕は先生から教わった技術をもって、大学で寝業師になりました。
この時、寝業師になったことが、僕の柔道観を変え、競技成績を押し上げました。

今僕がこうしていられるのは、間違いなく先生から教わった
高専柔道の技術があったからこそです。

そういえばひとつ、先生に謝らなければならないことがあります。
先生が教わった技術、これを勝手に「コムロック」(小室式固技)と名乗っています。

151987854_8 225194720_4

これは先生から教わった高専柔道の技術です。
でもどういうわけか、こう呼ばれるようになり、また僕自身の愛称としても
「コムロック」が認知されるようになり、そのまま使わせていただいています。

講道館に勤務するようになり、全然知らない人から
「君が平田先生の弟子か!?」
「君のような寝技をするお爺さんが昔、講道館に来ていたよ」
「小室は生前の平田先生のような背中をしている」
そんな風に言われることがあり、嬉しくもあり、気恥ずかしい気もします。

先生が伝えてきた技術は、寝業研究会の皆さん、DVD映像が受け継ぎ、
また僕自身も、講道館に勤務しながら、高専柔道の技術を伝えていくこと、
これが僕なりの、恩返しだと思っています。

どうか天国から(もしかしたら地獄から)僕らを見守っていてください。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月 7日 (水)

平田鼎-寝業研究会-伝説編

ラオスでお世話になった菊地先生が一時帰国しています。
そして僕に『平田鼎先生の追悼集』をくれました。

平田先生が亡くなられてもう10年くらいが経ちます。
そこで僕も、この追悼集をきっかけに平田先生について書いてみようと思います。

Sen3平田先生はこんなお爺さんでした。

平田先生との出会いは小学6年生の時でした。
東京・北区にある佑道館に所属していた僕は、
足立3中への進学を決めていました。

足立3中では実質、部活は行っていなくて、
部員は足立学園に移動し、高校生と練習していました。

なので僕も、佑道館の万代(まんだい)先生に連れられ、
足立学園に出稽古に行きました。
そこに平田先生は来ていました。

万代 「平田先生、この子をお願いします!」
5669 「お願いしますhappy02
平田 「お~お~任しとけ」

そんな会話があったことを覚えています。
そんな縁があって、僕は平田先生に可愛がられました。
可愛がられたと言っても、ご飯をご馳走になったとか、
お小遣いをもらったとか言う「可愛がり」ではなく、
『時津風部屋の可愛がり』と同じようなモンです。
 ※ビール瓶で殴られたりはしませんでしたけど・・・

僕たちは平田先生のことを平爺(ひらじい)と呼んでいました。
何気に徳原先生もコッソリ「平爺」と呼んでいました。

平爺伝説は沢山あります。
伝説のいくつかをご紹介しましょう。

>手ぬぐい
平爺は練習後、かならずシャワーを浴びます。
足立学園の道場は2階、シャワー室は1階です。
その間、道場からシャワー室まで手ぬぐい1つで移動します。
ほぼ全裸に近い格好です。

足立学園が男子校とはいえ、お母さんが来ることもありますし、
女性教諭もいます。僕らの時代は先の選抜体重別(女子78kg級)で
準優勝した平岡麻美選手もいました。
それでも手ぬぐい1つで校内を闊歩するのです。

ある時、平爺と剣道部の顧問が、シャワー室で一緒になりました。
平爺は腰が曲がり、よたよたと歩くのですが、不意に床に滑り、
大きく転倒しました。

『あ、死ぬ!』

剣道部の顧問(近藤先生)が思った瞬間、
パチーンという音と共に、受身をとった平爺がすっと立ち上がり、
何食わぬ顔で歩き出したそうです。

>戦争体験
ある先輩から、平爺の戦争体験を聞きました。
戦地で、銃の弾が切れ武器も失い、敵兵と相対したそうです。
平爺は咄嗟に引き込み、三角絞で相手を絞め落とし、難を逃れたとか。
この伝説は多分、眉唾です(笑)
でも、そんなことを高校生は信じてしまうほどの寝業師でした。

>クリーニング事件
平爺は道衣を洗わない人でした。
日が経過すると、それはもう溢れた牛乳を拭いた雑巾のような匂いすらしました。
当然、高校生は乱取りするのを嫌がりました。
だって臭いし、絞め落とされるから。

本人も、道衣の臭さに耐えかねると、平爺係(そういう係がありました)に
道衣の選択を頼むのです。僕の同期では、ヒロナリが平爺係でした。
Photo
ある時、平爺の道衣が見あたりませんでした。
平爺が来たら、すぐさま干してある道衣を差し出さなきゃなりません。
ヒロナリは焦り、咄嗟にキクちゃんの道衣を貸してしまいました。

平爺は昔の人です。
道衣のズボンはスパッツなんか穿きません。直です。

キクちゃんは怒りました。
キク「なんで勝手に貸すんだバカヤロー!」
ヒロ「だって無かったんだから仕方ないじゃないか」

そんなやりとりの末、ヒロナリが洗濯することで落着しました。
但し、洗濯機ではなくクリーニングに出して、アイロン掛けまでさせること。

僕らは道衣をクリーニングに出すなんて、聞いたこともなかったので、
大笑いしていました。
それでもクリーニング店に持っていったヒロナリ。
なんと引き受けてくれたそうで、キクちゃんの道衣はキレイにアイロン掛けされ、
戻ってきました。

>平爺ビデオ

ある時、誰かが「平爺がビデオ出したらしいよ」と言いました。
僕たちは大笑いし、誰一人としてそれを信じませんでした。


本当に僕たち、もちろん僕自身、卒業するまで平爺の偉大さを知りませんでした。
寝業好きの爺さん、話し好きの爺さん、たまに変な技を魅せる爺さん
その程度の存在でした無かったのです。

だから有名選手のように、ビデオを出すなんてあり得ない!
そう思って誰も信じなかったのです。

まさか本当に出していて、それ以前に、ある方面では神格化されるほど、
寝業の大家だとは知る由もありませんでした。

ただこのDVDを見て思ったことは、このDVDがあるから、
平爺が亡くなっても技術(映像)は消滅しない
とい思ったのです。

これは僕にとって強烈な印象を残しました。
だからこそ、僕も身体が動く今のウチに、
技術を解説し、それを自ら披露したものを
形に遺しておきたい。そう思ったのです。

少し大げさな話しではありますが、
今日、交通事故か何かで僕が死んだとしても、
コムロック、袖車絞といった技術はある程度、伝承されていく。
特に柔道界では山嵐なみに消滅しかかっている
袖車絞という技術が、実戦的な技術として紹介され、
またそれを実践で極めた映像として残っている。
それって結構、重要なことだと思っています。

最後に、僕が寝業で施している技術はそう多くありません。
袖車絞、コムロック、あとは腕挫十字固と横四方固くらいでしょうか。

柔術を学び、色んな技術を吸収してきましたが、
結局、今現在、僕が一本を取れる技術は
平爺から教わった高専柔道の技術が殆どです。

そう思うと、平爺には感謝しきれない部分と、
高専柔道の奥深さを感じずにはいられません。

次回は僕も、平爺へ追悼文を書きたいと思います。


| | コメント (13) | トラックバック (0)

2008年1月13日 (日)

守屋先輩の名札板

足立学園の在校生は知らないかもしれない。
多分知らないだろうな。。。

Dscf222111111111_2

足立学園の徳原先生は、
「学舎や国士舘に対抗するには中学生から6年強化する必要がある」
ということで、小学6年生をスカウトし、
足立3中に入学させて、練習を足立学園で行いました。

その初代が僕たちの代でした。
(足立学園中は翌年、設立されました)

初代の僕たちは中2,中3の先輩がいません。
(中3生が1人だけいましたけど)

高校生の集団に、中学1年だけが加入したので、とても可愛がってもらいました。
特に僕は中学1年の頃、どう見ても小学生だったので、
本当に良く可愛がってもらいました。
それはOBからも同じでした。

ある先輩は、いつも頬が真っ赤な僕を見て『ペコ』と名付けました。
不二家のペコちゃんと似ていたんだそうです。

その先輩は守屋正一郎と言い、現役時代は
八王子高校だった小川直也選手に勝ったりしていたそうです。

ペコ「先輩、小川選手に勝ったそうですね?!」
守屋「あいつはあの頃、大したこと無かったんだよ。ペコと同じだな」
ペコ「ムキー!」

そんな感じでかまってくれていました。
アイスやご飯、ジュースもよく奢ってくれた覚えがあります。

なぜ大学まで柔道を続けなかったのかと聞くと、
『柔道なんかもううんざりだよ、男通しで抱き合って気持ち悪い(笑)』
そんな風に笑い飛ばしていました。豪快な人でした。

僕が大学院を卒業し、講師として就任すると、
まず目をひいたのが道場にある大きな名札板でした。
(名前なんて言うんでしょうか?)

徳原先生に聞くと、それは守屋先輩からの寄贈でした。
あれだけ大きな名札板になると、100万円位しちゃうそうです。

5669『さすが守屋先輩、太っ腹ですね♪今何をしているんですか?』

徳原『死んだよ。電気関係の仕事をしてて、感電しちゃってな・・・』

衝撃でした。
まだ40代前半だったと思います。
守屋先輩の遺産(?)慰謝料(?)を母親が持ってきて、

「あの子があったのは、足立学園柔道部があってのことです」
といって、大金を遺していってくれたそうです。
それがあの名札板です。

そういった先輩達の支えがあって、いまの活動があるという現実。
それを現役生はもちろんのこと、他のOBもよく覚えておいて下さい。

正月、少しずつ増えていく戦績と生徒の名札
それを見て守屋先輩を思い出しました。合掌。

もうじき、高校選手権の予選(1/20)、そして都大会(1/27)が始まります。

頑張れ足立学園生!

 



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年12月11日 (火)

代表戦(後編)

それでは後編になります。(前編はコチラ)

代表戦として思い出深い試合をいくつか。

■高校3年のインターハイ予選■
都大会の準々決勝戦、僕たちは世田谷学園と対戦しました。
その年の世田谷は、金鷲旗でも優勝しており、
例年通り、優勝候補でした。

戦前、僕は徳原先生のこう聞かれました。
「宏二、本郷との勝負、左の相四つだけど、できるか?」

本郷選手は翌年、インターハイ(重量級)でも優勝しており、
その時のポイントゲッターでもありました。しかも僕と同じ左組です。
苦戦は免れませんでした。

しかし、僕は即答しました。「やれます!」と。
次鋒で出場した僕は、組み手に妥協することなく、
しつこく寝技に引き込み、引き分けに持ち込みました。

そのほかの選手も、妥協することなく接戦を凌ぎきり、
0対0の代表戦までもつれ込みました。

世田谷の代表は本郷選手、足立学園の代表は田崎選手が出ました。

軽量級軍団の足立学園は、爆発的な破壊力がありません。
唯一、全国レベルの中重量級と勝負できるのは、
田崎選手しかいませんでした。
まちがいなく、足立学園の切り札でした。
僕たちはこの大一番、彼に託しました。

結果は判定負け。僕たちは最後まで、
世田谷、国士舘の壁を破ることが出来ませんでした。

今でも、田崎(今は道都大学の監督)と話すと、この話題になります。
彼の柔道人生において、もっとも悔やまれる試合がソレらしいです。

でも、ウチにとっての切り札、世田谷にとっての切り札、
それぞれが出て、結果が負けなら仕方ないと、僕は思います。
「世田谷を倒してインターハイにいける!」
そう思えた、貴重な一瞬でした。

■教員3年目の代表戦■
それからちょうど10年後、僕は足立学園の教員になりました。
高校1年生から教え始め、その子達が3年生になったとき、
良いチームが育ちました。

都大会の準決勝、国士舘との対戦です。
1-1の同点で、この試合も代表戦になりました。

誰を選ぶのか?
徳原先生と考えました。

国士舘は重量級がそろっていましたが、中量級の西田選手を擁しています。
足立学園の子達は、軽量ですが重量級との試合を苦にしません。
逆に技もキレ、動きも速い西田選手のような選手が苦手だったりします。

代表戦は間違いなく、西田選手を予想していました。

対西田選手を想定したとき、足立学園には1つの切り札がありました。
ホームランバッター齋藤です。
彼は5月の団体戦、西田選手に一本勝ちしていました。
しかし、その日の試合でも西田選手と対戦していたのですが、
ここでは組み手を完封されてしまい、逆に負けてしまいました。
もう一度やっても、おそらく適わない。

得点をあげたキャプテンの関矢もいましたが、彼は副将で出ており、
スタミナを消耗していました。

眠れる天才、太田はメンタルが弱いので代表戦にはちょっと。。。。

残ったのは河野雄司でした。
(インターハイ73kg級3位、全日本ジュニア2位、現ジュニア強化選手)
中学時代から、大きな舞台で勝負している彼なら気持ちも強い。
鍛え上げられた身体は西田にも力負けはしない、
破壊力のある肩車なら、もしかしたら一発決まるかもしれない。

しかし、結果的には大内刈から内股への連絡技で、
河野は大きく弧を描き、一本負けを喫しました。

やっと辿り着いたチャンス、なかなか越えられない壁。
選手の悲しみ、徳原先生、僕の悔しさは相当なモノでした。
徳原先生が涙を流す姿を見たのは、久しぶりでした。

足立学園生の諸君
徳原先生を団体戦で全国に連れて行ってやってくれ!

■シロクマ君■
先日、足立学園に小学生を連れて行ってきました。
僕が教えていた中学生達も、中学3年になり、高校生になり、
知らない顔もチラホラいるようになりました。

あの時のシロクマも、もう今春、卒業します。
あの時の経験が、彼にどう影響したのか、
それは今となっては計り知れませんが、
教員となって、初めて経験した思い出深い代表戦でもあります。

 2004.5/23 『勇気と努力のシロクマ君』

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

どっちを選ぶ?!

7/22日曜日、久しぶりの休みでしたが、
中学生の都大会があったため、一路、東京武道館へ。

その昔、我が足立3中は国士舘を破り、準優勝しました。
あの時、国士舘に勝ったことで浮かれていた僕たちに、
バチバチと活を入れ、『まだ(弦巻中との決勝が)1つ残ってる!』
と怒鳴っていた徳原先生の頬に、涙が伝っていたのをよく覚えています。

また僕は個人戦55kg級で優勝し、全国へと進みました。
なんとも思い出深い大会です。

7/21土曜は個人戦があり、結果的に講道館で練習する中学生は
2名が優勝し全国へ、足立学園の方は2名が関東大会出場を決めました。
途中、講道館の勤務時間になり、後ろ髪を引かれる思いで出勤しました。

団体戦は最後まで見てやろうと思い、意気込んで行きましたが、
困ったことに、3回戦あたりで足立学園と、講道館で練習する
多くの中学生が通う文京1中が対戦するハメになりました。

こういう時はどうするかって?

帰りました。。。

どっちの生徒も応援してあげたいし、勝たせてあげたい。
でもそれは出来ない。
それに応援席が両校で隣同士なんですよね。。。
居場所もない。
そんな訳で退散しました。ごめんなさい。

私と柔道、どっちが大切なの?!

というような問いには答えられません。
だって人とスポーツは比べられるモノじゃないから。
強いていうなら両方大事ってトコかな。(日本人的な発言だな・・・)


| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年5月14日 (月)

闘いを経て

5/12,13と都立:葛飾野高校において、
恒例のインターハイ支部予選が行われました。

今から10数年前、僕もまた足立学園の選手として、
同じ場所で試合をしていました。

奇しくもその晩、僕はその当時の対戦相手と会うことが出来ました。

彼の名は「マツダ」君と言います。
足立学園校長と同じ名字ですが、多分関係はありません。

彼との初対決は1年生のインターハイ支部予選、準決勝。
彼は修徳学園の選手だったので、同じ支部では最も警戒した選手です。
その試合は僕が勝ちましたが、同じ1年生と対戦したことで、
「あと2回のインターハイ予選も、きっと対戦することになるんだろうな」
そう思い、来るべき次戦のために警戒していました。

 *1年生の時、支部大会では先輩に負けて2位、都大会では3位でした。

その翌年、やはり準決勝で再戦しました。

その当時、修徳学園には厄介な親父がいて、
試合では野次が酷くて有名でした。

僕とマツダの試合においても、
「そんなの柔道じゃねーだろ!反則だ」
「寝技ばかり狙いやがって、このオカマ野郎!」

なんて言われていました。

それでも、他の父母や、先生方も、
その親父の風貌に圧倒され、注意することが出来ませんでした。

試合をしている僕やマツダも、やりにくさを感じながら試合をしていました。
しかし、場外で「待て」になったとき、僕はその親父の近くまでいってしまいました。

相変わらず野次っています。

そして・・・

僕はそのまま親父のところに歩いていき、
「うるせぇなコノヤロー!黙って見てろ!」
睨み付けながら怒鳴り返してしまいました。試合中です。。。

そこで大人しくなるような親父ではなく、
危うく乱闘になるところで引き離され、試合は一時中断。
親父は退場になり、試合は再開されました。

試合の方は前回同様、オカマ作戦で抑え込んだように記憶しています。

試合後、修徳学園の監督(通称:パンサー)から謝罪され、
その親父もなぜだか以後は「イイ根性している!」と
応援してくれるようになりました。

マツダとの2戦は「同じ1年生」、「親父の野次に逆ギレ」
というエピソードもあり、なんだか印象に残っています。

しかし、残念ながら3度目の対戦はありませんでした。
マツダは練習中の事故でクビを怪我し、柔道が出来なくなってしまいました。

その話はすぐに聞き及んでいましたが、自分が何を出来るかも分からず、
ただ練習中の怪我に関して、徳原先生が、非常に敏感になったことは
確かでした。

高校生としての試合も全て消化した頃、
当時、彼女の弟が修徳学園だったこともあり、
マツダのお見舞いに行くことになりました。

そこではマツダが、すでに車椅子ながら教習所に通い
運転免許取得を目指している最中でした。
車椅子でも車が運転できる、僕には想像も出来ないことでした。

数時間の及んだ面会中、なぜインターハイに出れなかったのか、
(僕はインターハイに1度も出れませんでした)
出場した福島の国体はどうだったのか、
筑波に進学することになったとか、
そんな柔道話を延々としていました。

あのとき、お腹が空いて注文した
ピザーラの『テリヤキチキン』が、今まで食べたピザの中で
一番旨かったと記憶しています。

そんなマツダが、10年を超えた歳月を経て、
奥さんの誕生祝いをウチ(宝寿司)でやってくれることになり、
再会することが出来ました。マイカーを運転して千葉から来てくれたのです。
今は車椅子バスケの選手として、日本一を目指しているそうです。

昨夜も、色々な話をしました。

同級生だけれども、チームメイトではない。
足立学園の同窓会とは違ったアングルで、
昔話が後から後から、湧いて出てきました。

お互いをリスペクトして、切磋琢磨し、
目標達成への大きなライバルとして
同じ時間を共有していた。
こういうのを『戦友』と言うんでしょうね。

昨夜は貴重の時間を過ごすことが出来、
少しお疲れ気味な僕でしたが、「また頑張ろう!」
と元気になれる出来事でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年8月 9日 (月)

優先順位

昨日までは長野に遠征に行っていました。
夏休みとはいえ、殆ど自由な時間はありません。

明日からは草津での筑波大学トレーニング合宿に参加します。
こればっかりは自分のための練習時間です。

それが終わったら、足立での校内合宿、そのまま北海道合宿、
そのまま香川での学会、そして夏休み終了と忙しい毎日です。

過労で死ぬ先生の気持ちが解らなくもないです。

いまとても矛盾と思うことがあります。
多忙な中で、やるべきことに優先順位をつける必要があると思うのですが、
教師として生徒の練習に付き合うのは当然として、
現役選手として練習やトレーニングに励むこと、
授業の用意や、自分の勉強などをすることがまず優先と思います。

でも現在、第二位ぐらいに食い込んじゃうのが「飲み会」です。
人付き合いも当然大切だとは思いますが、
連日、しかも深夜(12〜13時)までとあっては、
本来やらなくてはいけないことにまで影響を受けてしまいます。
「飲み会」て時間の余ったときにやるべきことなんじゃないかな?
優先順位としては常に最下位であるべきだと思います。

しかも「飲めないなら食え!」って、もうお腹いっぱいだって言っているのに
追加注文するのも、もう食べれないって言っているのにラーメン屋に行くも
ホント止めていただきたい。

食べたくないもの食べて、減量で苦労するのは矛盾しています。

「飲めないのに、毎回付き合ってて辛くないか?」
『いえいえ、もう慣れましたから大丈夫です!』
毎回ウソついてます。。。

「まぁ断ったらヒンシュクだからな」
そう言われたら断れません。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年7月29日 (木)

27歳になりました

私事ではありますが、今日は私めの27回目の誕生日でした。

もう27歳です。柔道選手としては、強化サイドから殆どの選手がリストラされる年齢です。
講道館杯で負けたら、再び這い上がるのはかなり困難です。
多くの選手はこの年頃に、方向転換をするんですよね。

この時期を過ぎて、今なお頑張っている鳥居先輩は凄いな〜と思いますし、
30歳を過ぎて、教員をやりながら世界チャンピオンになった寝業師・柏崎先生は僕の目標でもあります。

本題に戻って・・・
27歳ともなると、いつもと変わらない一日が過ぎていきます。
小学生の頃のような、自分が主役である特別な一日、というわけにはいきません。

第一、可愛い女の子が「今日、私の誕生日�・」とか言っていたら、
なんか祝ってあげなきゃなと思いますが、こんな体育教師が
「今日誕生日なんです!!」なんて言ったって、僕ならウザッてぇな!と思いますし、
何より「おめでとう!じゃあ飲みに連れてってやる!」なんて言われたら、
嬉しいような辛い気分なので大人しくしていました。

ただ7/20以降、僕が担当しているクラスのホームルームに出ているので、
「明日は先生の誕生日だ。手ぶらで学校来るんじゃねーぞぉ!!」
と脅かしていたら、『先生、実際明日は何を買ってきたらいいんですか?』と
真顔で聞かれてしまったので、慌てて冗談だよと諭しました。

最近は少し時間に余裕が出来たので、練習以外の時間はもっぱら学会発表の準備をしています。
今日は朝トレをした後、ずっと研究をしていたので練習に出ていませんでした。

練習も終盤に差し掛かった時間に、ポイゲが僕のいる職員室まで来てこう言いました。
「先輩、今日は練習しないんですか?」
「うん、今日は研究の方がやりたいんだ。どうかした?」(小室)
「今日は暑くて練習きついし、楽しくないんで、先輩来て欲しいです」

こう言われちゃ黙ってられないです。
彼らが僕を必要としているんですから、行かなきゃいけません。
辛い練習の時は、嫌な顔をせず、バカになって声を出して景気づけるしかありません。

【余談】
そういえばこういう時、狂ったように声を出して盛り上げていた同級生が、筑波の同期、第一号で結婚しました。とても素敵な結婚式だったので、その時のコラムはまた後ほど。

早速着替え、寝技の乱取で一本勝負だったので、高校生を片っ端から狩ってやりました。
練習を終え、着替えてまた研究に戻ろうかなとしていると、
新キャプテン・関矢が「集合!」と声を掛けました。

「?・・・・?」

「せ〜の、ハッピバースデー・・・・」
急な出来事でキョトンとしてしまいました。
練習で汗を流したら、自分のことなんかすっかり忘れていました。

生徒達はお小遣いを出し合い、僕にケーキとプレゼントを買ってきてくれました。
も〜リアクションに困るくらい嬉しかったです。

足立学園では毎年、徳原先生の誕生日にプレゼントをする習慣があります。
徳原先生はこだわりの人なので、上手くヒットしたモノを贈らないと、
普通に「いらねぇ」と言われてしまいます。

僕らの頃は、徳原先生の好みをほぼ把握していたので、
僕が「ヤン吉の好みは俺に任せろ!」と言って、ジャージをプレゼントしました。
もちろん、裾がすぼまっていて、上着をズボンにしまえるような、細身のジャージです。
僕が選んだジャージは2ベースヒットぐらいのあたりでした。
今年は生徒と共に、丸井でジャージを買ったのですが、
最初の反応はイマイチでした。

でも少し日が経ってから「先生、それ若い選手の間で凄く流行っているヤツですよね!格好いいなぁ!」と言ったら「お?そうか?そうか!」と言って頻繁に着るようになりました。(笑)作戦勝ちです!

話は戻って、徳原先生のそのイベントは絶対忘れちゃ行けないイベントなんですが、
僕はそこまでの身分じゃないと思っていました。なので嬉しかったです。

その後、すぐに職員室に戻り、感慨深く浸っていました。
そう頻繁に生徒の前でピーピー泣いていられませんからね!

それでも今日は、教師をやっていて本当によかったと思えました。
「母校で教師が出来るというのは最高の出世であり幸せだよ」
とある先輩に言われました。本当にそう思います。

今までの26回の誕生日には悪いけど、今日の誕生日は最高の一日でした。
みんなありがとネ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年7月24日 (土)

金鷲旗

金鷲旗に行ってきました。

今回は中学生の都大会と被ってしまったため、
高校生の金鷲旗は僕が引率することになりました。

また今回は、3年生で一人、都大会に出ることが出来なかった
山田誠(通称・まこっちゃん)への配慮から、
3年生チームで編成することにしました。

kinnsyuuki.JPG

全員が3年生、そして引率は僕ということもあり、
プログラムを見た方は印象深かったかと思いますが、
全員が満面の笑みでした。
(実際には写真を撮ったときに2年生のタツミが豪快な屁をこいたからなんですけどね)

では早速試合について・・・
試合は五人抜きを狙った先鋒・まこっちゃんから始まりました。
「五人抜くから、みんなはアップしなくていいぞ!着替えなくてもイイ!」

そう粋がるまこっちゃん。
柔道部物語の西野真治じゃないんだからね・・・
それに整列するんだから、とりあえず着替えなきゃ(笑)

先鋒戦、盤石の引き分け・・・・・・・・・・・

次鋒戦、池田!
試合中、徳原先生からの電話
徳原「試合どうなってる?」
小室「いまやっているところです。あ、投げられた・・・」

中堅、金内!
なぜかよく判らないけど、相手の注意で優勢勝ち。中堅同士に戻す。
そして引き分け。

副将同士は、国体に先鋒での出場を決めたキャプテン石川!
やはり無差別の試合ではなかなか攻めきることが出来ず、
また審判の「待て」が早いのなんの。
まだ動いているのに「待て」をかけるから困ります。

結局、指導を取りましたが国内規定のために引き分け。

そして大将はベビーフェイスモンキー東健太!
お父さんも応援に来ています!そっくりです。

とりあえず豪快に吹っ飛んで一本負け。
3日目まで予定していた金鷲旗は、早々に初日で終わりを告げ、
そして観光旅行に早変わりしました。

2年半、頑張ってきた子達ですからね、
たまには柔道で楽しい思いをさせてあげたいです。

僕達の頃は練習試合大会に早変わりし、
負けた学校同士で延々と練習試合が繰り返されたもんです。

二日目、三日目は完全に観光に徹しました。
とくに試合が終わったあとは、海まで行き、花火をしました。

花火とはいえ、花火合戦です。
ロケット花火や、打ち上げ花火をもって相手に打ち込むのです。
(良い子は危険なので真似しないでください)

僕は東に狙われ、追っかけられたりしましたが無傷、
逆にまこっちゃんに一発命中させました!

汗だくになり、花火も尽きてくると、
暑くてみんなダラダラしてきました。

gattu.JPG

写真を見ると、みんなパンツ一丁で汗だくの様に見えますが、
実は違うんです。

池田が突然「海に飛び込もう!」と言い出しました。アホかと思いました。

飛び込むような海じゃないです。
船が停留している港で、変なモノも浮いていますし、
死んだ魚とかも浮いています。

ゲームとかをして負けたら飛び込もうとか色々言っていたんですが、
デビル東が僕に忍び寄り「先輩、池田調子コイてるんで叩き落としましょう!」
と言うのです。

僕は教師です。生徒を汚れた海に落とすことは出来ません。僕は東に言いました。

「バカやろう!任せとけ!」

僕は堤防まで歩み寄り、落ちた人用の梯子があることを見付けました。
「へーこんなトコに梯子がある!みんな見てみな!」

案の定、池田がのぞき込んできました。
こんなチャンス、修羅場をくぐり抜けてきた小室先生が見逃すわけがありません。
イヤ、この時僕は先生ではありませんでした。
(なんかあったら絶対クビだわ・・・)

ドンッッ!!

寺尾も真っ青の突っ張りを池田にたたき込みました。
66kg級だけどスラッとした池田の身体は、
軽く空中に飛びました。

そしてキャップ石川が自ら飛び込み、池田の逆襲で東が落とされ、
嫌がるまこっちゃんを、諭しながら金内が共に飛び込んでいきました。

小室「みんなバカだね。じゃあ帰ろうか(笑)」

『先輩!先輩が飛び込まなきゃ締まらないッスよ!』

この子達は何を言っているのか分かりませんでした。絶対にバカです。
仮にも私は教師です。そしてもうじき27歳にもなるのです。
阪神ファンでもなきゃ、サッカーのフーリガンでもありません。
そんなノリだけで、汚れた海に、生徒を引率している身で飛び込めるわけがありません。

でもそれ以上に、僕は『Noと言えない日本人』なんです。

「では今後の目標を言ってから、豪快に飛び込みましょう!先鋒・小室先生!」

それぞれが何を目標に言ったかは秘密です。
悪いことをしたことも承知です。
(すんません。見逃してください)

でも彼らの胸に、この遠征の思い出が刻み込まれたことは確かではないでしょうか。
来年は、あのデッカイ掲示板に『足立学園』の名を刻むぞ!

【追伸】
帰りの飛行機で面白いモノを発見し、激写しました。
日の出ではありませんよ。絶対上下間違っていますよね?
hage.JPG

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年7月19日 (月)

今日のポイゲと高校野球

今日のポイゲと高校野球

昨日、膝を痛めたので今日は練習は軽めに打込のみ。

練習中に道場の壁が破損して徳原先生が日曜大工を始めました。
大工に熱中する先生・・・するとなにやら道具が足りないようです。

「おい!○○買ってこい!丸井に行けば売っているだろ」
その役目は、近くにいたポイゲに向けられました。
着替えて買い出しに行こうとするポイゲ。

でも徳原先生は猛烈に短気マンです。
『着替えてんじゃね〜!今すぐそのまま走って行ってこい!』

なんとポイゲは、道衣のまま、走って千住駅前の丸井に向かいました。
あり得ない。道衣で丸井に行くなんて!(笑)

僕が警察官なら、絶対、職務質問しますね。
ちょっぴり精神面を鍛えられた今日のポイゲでした。

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

高校野球の季節。甲子園!

実は私、野球が大好きで、小学生時代は夜に公園で黙々と素振りをしていたりしました。
ただ好きなだけで、全然上手くはありません。
試合前、バッティングセンターで打ち込むと調子が良いというジンクスがあります。

野球部の顧問は、高校1年生時代の担任・井上先生。
(通称ぴょんきち!ちなみに柔道部顧問はヤン吉)
数学の先生なのに、いつも体育教官室にたむろしている超体育会系教師です。
ちなみに僕と同じく下戸なので、飲み会の時はいつも添っています。

そんな野球部、近年は東京予選で初戦敗退が続いていました。
でも最近は朝練に加え、夜も9~10時ぐらいまで練習してて、よく校長に怒られています(笑)

その甲斐あって、1回戦、2回戦と勝ち進み、今日は3回戦・成立学園戦でした。
1回、先頭打者がホームランを打ち、さい先の良いスタートを切りましたが、
結局は追いつかれ、逆転負けしてしまいました。

それでも、応援に行った柔道部員は、感銘を受け、勇気や気合いを受け取ったみたいです。
やっぱり、ひたむきに何かに打ち込む生徒って素晴らしい。格好いい!

僕が野球選手になっていたら、打てないし、投げれないし、ましてや走れもしないので、バント職人になるぐらいかな?!イヤ、やっぱ柔道やっておくのが一番かな?

このお尻について知りたい方は、「コメント」をクリック!

Cpc

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004年5月30日 (日)

'04 IH東京都大会(男子個人)

今日のインターハイ個人予選、足立学園の主な結果
60kg級 塚崎2位
66kg級 石川2位
81kg級 関矢3位

インターハイには最低でも1階級は出られると思っていただけに、
今回は残念な結果に終わりました。

それでも、今回の結果は中学生同様、
地味だけどコツコツやってきた子が最期まで勝ち残りました。

負けた子は、涙を堪えて仲間を応援していました。

この暑さの中、必死で接戦を勝ち上がっていく生徒、
彼らには試合当日、技術的なことはあまり言いません。
コラムにも書きましたけど、
『相手を、負けを、失敗を恐れない勇気!諦めない根性!』
このことだけを再三、言って聞かせました。

最近つくずく思うこと、勝負は気持ち!
初戦で負けてしまったポイゲの太田は、今回それを痛感したでしょう。

勝っても、負けても、もうすぐに感情移入してしまい、
涙目になって言葉に詰まってしまいました。
歳をとると涙腺が緩むと言いますが、そんな歳でもないし...

試合の時、ハンカチは必需品になりつつあります。
また明日から頑張ろう!先生も頑張ります!

願わくば、「お前ら!先生を目指せ!」
そんな豪の者になってみたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年5月23日 (日)

勇気と努力のシロクマ君

今日は中学生の春季都大会でした。

今の中学生、テーマは高校生同様「勇気」です。

足立学園の静かな努力家「シロクマ君」は、弦巻中学戦で勝利しました。
でもチームは負けてしまい、3位決定戦で第三亀戸中と対戦しました。

この第三亀戸中の上杉先生、僕達が中学生の頃は、
深川三中の顧問として、支部大会では何度となく対戦しました。

「今度は指導者として、また対戦するっていうのも、イイもんだよな〜」
というお言葉を戴きました。

試合は1−1で副将のシロクマ君へ!
僕は常々、失敗を怖がっちゃいけないよ!と教えています。

シロクマ君は、重量級では珍しく、寝技では引き込んで勝負をするのですが、
失敗して抑え込まれちゃいました。→「一本負け」

泣きながら帰ってくる生徒を、僕はもちろん怒りませんし、
褒めてあげました。

『失敗したことよりも、勇気を出したことに意義がある
だから泣かなくたって良いんだよ。大将の「黒ハルク(通称)を応援しな」

黒ハルク、なんと一本勝ちしてしまい、2−2の対として代表戦にもつれ込んでしまいました。

徳原先生との意見はすぐさま一致しました。

「代表戦はシロクマ!」(もちろん、本名で伝えたんですよ)

小室「挽回のチャンスきたよ!漢を魅せてこなきゃ!」

シロクマ君は何度も頷くと、息の上がっっているのにも妥協せず、
ガンガンに攻めました。相手はさっき負けた相手です。

それでもシロクマは頑張りました。
地味で大人しくて、でもコツコツと努力したこの子を、
代表戦に選ぶのは一つのギャンブルでした。

ここで連敗したら、この子の性格じゃ落ち込んでしまう。
でもここで勝ったら、大きな自信になることは間違いない!

指導者の心配と期待を感じたかどうかは定かではありません。
でもシロクマは頑張りました。そして勝ちました。
小さな努力が、小さく綺麗な花を咲かせた一瞬でした。
やべ、また泣いちゃうよ・・・

今回の試合、努力の差がハッキリと出た大会でした。
頑張っている子は勝ち、普通の子は引き分け、頑張っていない子は無様な試合をしました。
そのことは、今回厳しく、生徒に伝えました。
そのことをどう感じてくれるのか、明日からの中学生に期待します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年4月20日 (火)

納豆工場

今日の練習は、パーソナルトレーナーを招いてのウエイトトレーニング!

放課後になり道場に上がると、早速生徒がウォーミングアップを開始していました。
すると・・・

うっ!
道場に納豆の匂いが立ちこめているではありませんか!?
なんだ、昼の弁当で納豆持ち込んだ強者がいるのか?

そう生徒に尋ねてみると、犯人は新入生の中学生でした。

なんと彼、お風呂に入るのが嫌いで、
ここ3日間、風呂に入っていないと言います。

「ん〜と、昨日と、その前と、その前も・・・」・・・素晴らしい!

しかもしかも!
彼は靴下が嫌いなんだそうで、上履きも、革靴も、運動靴でさえも素足で履くんだそうです。

その靴達は、4月で新品同然にも関わらず、すでに死んでいました。

そんな話で笑っていましたが、
トレーニングが進むにつれて、シャレにならなくなってきました!

もうどうにも我慢できなくなり、まずは僕が「メンズビオレ・さらさらシート」で
足を拭いてあげました。

生徒「わぁ!このシート凄く臭い!」
小室「違うよ。このシートじゃなくて、君が足が臭いんだよ」
生徒「え〜ウソだ!臭くないですよ。クンクン」
小室「おぉぇ〜」

その後、メンズビオレは殆ど効果がなく、
バケツに水を汲んできて、ビオレ・ボディシャンプーを混ぜ、
足を洗わせました。

それでもなぜか、匂いはなかなかとれませんでした。

この『足に納豆を持つ漢』には、
毎日お風呂に入ること、靴下を履くことが厳命されました。

そして「靴下を履かせる係」は中学2年生になった「ゆうたん」が務めます。
...................................................................................................................

その昔、マイクロバスで遠征に向かっている途中、
車内が納豆地獄になったことがあります。

その犯人は僕の同級生でしたが、最後部に座っているにもかかわらず、
最前列に座っている先輩がマジギレするほどの異臭でした。
もちろん、彼の靴も死んでいました。

そんな彼も今では人を更正する施設に入っています。
収容されているのか、働いているのかは、ここでは言えません。
悪しからず・・・

柔道家イメージを失墜させる、珠玉のコラムでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年4月14日 (水)

選抜体重別

先日の選抜体重別を終えて、試合の前後には色々と思うことがありました。
長くなりそうですし、愚痴っぽくなってしまうと情けないので、
少し間をおいてから書くことにしました。

>選抜出場への思い

僕は中学3年と、高校1年のある時期、徳原先生のお宅に下宿していましたが、
御飯を食べるのが遅い僕は、徳原先生とマンツーマンになることが多々ありました。

ある時、足立学園OB、中山祐司先輩(日体大→綜合警備保障)が選抜体重別に出場し
た時にこう言いました。
「日本で8人しか選ばれない大会だからな、宏二もこれに出れたら褒めてやろう」

中学高校時代、徳原先生に褒められたことなど数えるほどしかありません。
貴重な1回は、内柴に敗れ、3位で終わった富山での全中(全国中学生大会55kg級)
の時でした。

「そうか、この大会に出たら褒めてもらえるほど権威のある大会なんだ!」
大学進学時、体重別では国内最高峰であるこの大会への出場は、
僕の目標の一つでもありました。

初めての出場は4年前、中村行成さんに負け、翌年は園田隆二さんに負けました。
母親や、地元道場の先生が応援に駆け付けてくれる中、未だ1勝もしていないこの大
会...
「なんとか再び出場し、両親に勝利を魅せる」
これが僕の新たな目標になりました。

>生徒達へ

この選抜に出場する際、生徒に伝えたいことがあったのですが、
僕も調整不足で時間がなく、また生徒も遠征があったために直接伝えることは出来ま
せんでした。今更ですが、それをここに記させてもらいます。

______________________________________

みんなと一緒に、この1年頑張ってきました。
挫折しそうになったこともあったけど、
もう一度初心に返り、みんなのお陰で頑張って来れました。

今度の試合は、先生の夢を叶えられるかどうかを決める、大一番です。

「努力は人を裏切らない」この言葉はウソじゃない。
そのことを今度の試合で証明してみせます。

もしかしたら、みんなに選手としての自分を見せることが出来るのは、
これが最期かもしれない。

テレビでは見ることができないかもしれない。
それでも先生の生き様か、または死に様かもしれないけど、
一生懸命取り組んだ成果を、発揮してこようと思います。
その過程と結果の中で、何かを得てほしいと思います。
______________________________________

>試合に向けて
2月、脱臼した小指が完治せず、ずるずると試合当日まで延びてしまいました。

強く握ることが出来ず、また開くことも出来ず。
組み手争いが出来ないので乱取無しの調整で、
ランニングとウエイトトレーニングを中心に行いました。

また学年末ということで、試験や採点、2校掛け持ちしていたために、
送別会や離任式、結婚式なども重なり、断ることが出来ない飲み会が続きました。
このことも調整を遅らせた大きな要因でもあります。

ただこれは、言い訳をしたいのではなく、事実と実力です。
こういう環境や状況は現実のことで、これらの要因も含めた総てが僕の実力なので、
言い訳をするつもりは一切ありません。

減量はきつかったです。
久し振りに60kg級だった頃を思い出すように、
前日は殆ど飲むことも食べることも出来ませんでした。

計量時、体脂肪率も計るのですが『11%』(普段は6~7%ぐらいまで落とします)
もありました。このことからも、脂肪を落とせず、水分や筋肉を落としてしまったこ
とがわかります。減量一つについても、うまくいきませんでした。

試合での作戦は、今までと同じ様な組み方、技では通用しないし、
今の僕では出来ませんでした。
そこで考えたのは、右組になることでケンカ四つになり、
「飛び付き腕十字」一発狙いしかありませんでした。

試合前、早稲田の青木君に筑波まで来てもらい、教えて貰いました。

しかし、教わって2,3日の付け焼き刃では通用するわけもなく、
内柴曰く「ワンテンポ遅く、躊躇していたので反応できた」
飛び十字はあっさりかわされてしまいました。

その後、殆ど組むことが出来ず、振りまわされて「指導」を受けました。

最期は、講道館杯で「技あり」を奪われた、振りまわして入る一本背負投で
やられてしまいました。
兄が言うには、僕は一度外した背負投に対して、
寝業に持ち込みたいが為に、どうしても背中に乗りかかってしまいます。
前回も今回も、自分から背負投に誘い込まれるように背負われてしまっています。
もしかしたら、僕が寝技に行きたいことは十分承知の上で、
誘われていたのかもしれませんね。

>試合を終えて

生徒に見せたかった努力の成果は、
逆に内柴に痛いほど見せ付けられました。

計量失格から、実業団、講道館杯と一気に這い上がり、
ついには代表も掴んだ。

これまでの苦闘と、努力は相当なものだと思います。
僕は内柴のそれに遠く及ばなかった。それがこの結果だと思います。

できることなら自分が立ちたかった舞台ですが、
内柴の努力と結果はもちろん認めますし、
僕らの代表として、心から応援したいと思います!

今回の敗戦は、もちろん悔しいです。
しかし試合までの過程では、やれることは全てやりました。

でも自分自身を納得させるには至りませんでした。
『自分が納得できたらもう、これを最期に・・・』
と思っていましたが、そこまでいきませんでした。

だからまだ身体の動くうちは、気持ちが切れていない今だけは、
もう少し、少しだけ頑張ってみようと思います。

願わくば、講道館杯や選抜に生徒と一緒に出られたらいいなと思います。
もちろん、コーチボックスは「ヤン吉」で!

>横断幕
今回、付き人で連れていった河野の両親が、横断幕を作ってくれました。
あんなに立派な横断幕、本当に心強かったし、励まされました。
僕の宝物として、大切にしようと思います。

ちなみに、今回を最期に了徳寺学園を退職しました。
次回から試合に出るときは『足立学園教(諭)』となります。
今後とも応援宜しくお願いします!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年4月12日 (月)

足立学園・再始動

就任そうそうですが、一応、僕が足立学園柔道部の(登録の上では)「顧問」になるようです。

もちろん、実質的な監督は徳原先生で、僕は選手兼コーチに変わりはありません。
あくまで登録上です。

先日、僕と徳原先生の不在の隙に、部員全員が練習をサボっていました。
そこで今回、本当に強い集団になるために、部員全員をクビにしました。

1週間後、本当に強くなりたい人、柔道が好きな人だけが集まるようにと、伝えてあります。

ここで重要なのは、強い人ではなく、『努力する人』です。
強い弱いは、現時点では関係なく、
一生懸命練習することを約束できる人だけが集まって、
そして強くなっていこうと思います。

親がうるさいから、辞めるに辞められないから、
練習は嫌いなのに、なんとなく部に在籍して
惰性の練習を繰り返している生徒には辞めてもらうことにしました。

もちろん、「強ければいい」という集団にするつもりは毛頭ありません。
努力することの大切さ、礼節、そういったことも指導するにするつもりです。

1週間は自由期間としました。
自主練習をするも、勉強、遊び、何をしても構いません。
今自分に必要なことは何か?
それを考えたら、やることは限られていると思います。
この1週間に過ごしたことが、まさに今自分のやりたいことだと思います。

1週間後、どんな生徒が、どんな顔をして集まってくるのか、
正直にいえば、気が気じゃない日を過ごすことになりそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

その他のカテゴリー

ニュース |