日記・コラム・つぶやき

2008年6月27日 (金)

ルールの特殊な例の解釈

全柔連のHPに 「ルールの特殊な例の解釈」 というのが載っていました。

2008.3.17
全日本柔道連盟
ルールの特殊な例の解釈
(1)マウスピースの着装は歯の矯正のために固定されたものは問題ないが、
脱着可能な物質は飲み込む危険性や相手に危害や不快さを与える可能性
があるので禁止とする。
(2)下穿の下に着けるスパッツ等の長さは、膝よりも短いことを原則とする。
(3)頭髪に着け毛等をすることは禁止する。

コレによると、マウスピースは禁止になったんですね。
知りませんでした。
以前はOKだったんですけど、その理由が
相手に不快感を与えたり、危害を加えるおそれがあるって。。。
ホンマかいな?

着脱可能だからとはいえ、誤って飲み込むこともあり得るのでしょうか?
そうしたら打撃系格闘技でも危なくて使えないですよね??

ちなみに僕はマウスピースを別の用途に使っています。
夜、寝るときに着けているんですけどね。
(コレについてはまた別の機会に・・・)

今度、練習の時にも装着してみようと思います。

さてロングスパッツ。これも試合では禁止のようです。
先日の紅白試合では、これを穿いて出ている選手がいましたが、
本当は禁止なんですね。

冬場の講道館は死ぬほど寒く、その時期は僕もロングスパッツを穿いています。
ただ淑徳大で指導する際、寝業の指導ではロングスパッツの方が良いのかなと思います。
だって腕挫十字固を指導するときなど、
僕のすね毛が学生の顔に当たったらイヤでしょうし。
僕が女子大生だったら嫌がると思います。
まぁ、ワキガよりはマシでしょうけど。

着け毛をするヤツはいないかなと思いましたけど、
女性がエクステ(?)とか着けたまま試合することもあるのでしょうか?

男性には関係のない話かと思いましたけど、
そういえば高段者大会で、明らかにカツラ被った爺さんがいたなぁ(笑)

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2008年6月17日 (火)

きくちゃん

おめでたいお話ですribbon
僕の同級生・キクちゃん(足立3中&足立学園)が結婚します。

Kikuta

中学1年の時、同じクラスだったキクちゃんを
脅かして柔道部に入部させました。

勧誘ではなく、脅迫して入部させました。

結局、キクちゃんは「辞めなかったんじゃなくて、怖くて辞められなかったsweat02
と言って、大学卒業まで10年間、柔道をやりきりました。

そんなキクちゃんが結婚します。コブー(中学時代のあだ名)のくせにannoy

「俺の人生を変えた出会いだったから、コムちゃんスピーチしてよ」

本当に脅迫しただけだったのに、そんな風に言ってくれました。
もちろん緊張しますが、快諾です!

気合い入れずにはいられません。
一肌脱ぎます!
てゆーか脱ぎます!

709250_4174975184s (中央5669、右がキクちゃん。正和の披露宴にて)

と言ったら「結構、立派な式場だから、脱ぎ系は勘弁して」とのこと。。。

足立学園の教員時代、徳原先生から学んだことのひとつに、
人との義理を大切にする
と言うのがあります。

僕も友人の冠婚葬祭は何が何でも参加するつもりです。

しかし・・・・

今回、講道館の夏期講習会(1部)とバッティングしてしまい、
どうしても、どうしても参加することが出来ません。
スピーチに関しては涙あり、笑いありの絶妙な演出を企画していたのですが。。。

そんな訳で、結婚式の二次会には遅れて参加し、
またその報告をここでしたいと思いますが、
彼にまつわるエピソードを。。。

足立3中に進学した僕らに、徳原先生はこう言いました。
「お前達だけじゃ少なすぎる。一人につき、一人一般生徒を勧誘してこい」
僕たちは徳原先生が中学から強化を始めた最初の生徒です。
なので部員が殆どいませんでした。稽古相手の確保です。

僕は「こむろ」
キクちゃんは「きくた」

出席番号順では僕の1コ前でした。
手っ取り早く、僕はキクちゃんを勧誘しました。

キクちゃんは当初、「RPG研究会」という訳の分からない
オタクっぽいクラブに入ろうとしていましたが、
「おい、柔道部入らないとどうなるかわかってんのか」
的な猛烈な勧誘で、渋々入部を決めました。

素人のキクちゃんが、打倒・国士舘中、弦巻中を目指す
集団で稽古するのは筆舌に尽くしがたく、辛かったと思います。

稽古相手は僕らか、足立学園の高校生です。
殆ど投げることなく、一日の稽古を終わることも多かったでしょう。
絞技から逃れる練習では、悲鳴を上げながら何度も絞め落とされていました。
立ち技乱取りでは、頭を打つ度に「菊田は受身のやり直し100回!」
と言われ、スポンジの着いたヘッドギアをして稽古をしていました。

前述のように、怖くて『辞めたいって言えなかった』というキクちゃん。
そんなキクちゃんも、徐々に力を付けていきました。

どういうわけか関西の大学で柔道を続けたキクちゃん。
4年生の時にはとうとう「全日本学生体重別」の73kg級に出場しました。

僕とキクちゃんは、すぐ近くの控え室で、
試合の前後でお互いに声を掛け合いました。

キ「減量にビビって体重落とし過ぎちゃったよ」
5「俺も階級上げたら、65kgしかなかったよ」

キ「1回戦勝った?」
5「勝ったよ。もう1つ頑張ろっ!」

いつもお調子者的存在のキクちゃんが居たので、
なんだかリラックスして試合に挑めたことを覚えています。

先日、足立学園に行くと、新入生を見ながら徳原先生がこんなことを言っていました。

徳「こいつは強くなるかな~?」
5「辞めずに続いたら、モノになりますよ」
『そうだな。菊田も受身から初めて強くなったモンなぁ』

キクちゃんにまつわるオモロー!な話しは、二次会に参加した後、
また書いてみようと思います。

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2008年6月11日 (水)

柔道家であり格闘家

訃報です。

コンテンダーズを主催する和術慧舟會の
守山竜介さんが交通事故で亡くなられました。
(格闘技情報のBoutreviewに詳細が掲載されています。)

僕は人の夢と書いて『(はかない)』と読む、
この字が好きなんですが、それにしたって無情です。

僕は守山さんにとても恩義があります。

柔道家としての身分を保持したまま、コンテンダーズの
リングで試合が出来たのは、守山さんのお陰です。

柔道界と決別し格闘技界に飛び込む選手、今はそう珍しくありません。
でも僕がコンテンダーズに挑戦したころ、
現役の強化選手がリングに上がること自体、あり得ないことでした。
しかも身分を保持したまま。

それは柔道家であった守山さんが、全柔連に直接掛け合ってくれた
ことで実現したことです。

それがあるからこそ、いま自分は柔道界に存在して、
講道館で働くことが出来ているのです。
感謝しきれません。

トラックに牽かれるなんて、本当に痛かったでしょうね。。。
サイドブレーキぐらい、しっかり引いておけよ!annoy

僕の携帯には、守山さんを含め、故人のアドレスが残されています。
もう通じるのことのないこのアドレスを消去してしまったら、
もう記憶さえも消去してしまいそうで、消すことが出来ません。

故人のご冥福を心からお祈りします。

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2008年5月30日 (金)

北区民大会

今更なんですが、3月に行われた北区民大会について書きます。
いま僕は北区柔道会に在籍しています。
なんだか色々と役職を任されつつあるのですが・・・

やれる仕事も限られているので、今回は審判をやってきました。

平爺のコラムでも書きましたが
「宏二が審判できるの?選手じゃなくて?!」
「宏二がもう大人か~早いもんだ」
などなど茶化されながら審判をしてきました。

僕の同級生(小中高と一緒)の子供が既に小学生で、
試合に出場していましたが、緊張しすぎて
思うように動けなかったようです。
お父さん(つまり同級生)はもちろん、お爺ちゃんも応援に来ていましたが、
なぜかその中に、ウチの親父まで合流していましたsweat01

審判をしているなかで、気が付いたことをいくつか。

>狭い
会場は正規の試合場が1面とれる小さな道場ですが、
そこを2試合場に分けて進行していました。
場外を仕切るラインギリギリまで観客が座っていて、
狭いなんていうモンじゃないです。
場外際、攻防での危険性はもちろん、火災時にパニックになるのは
明白です。予算を追加してでもアリーナを会場にするべきだと思いました。

>幼年の部
5歳以下の未就学児に試合をさせる意味があるのでしょうか?
礼も出来ない。受身も出来ない。そのレベルが殆どでした。
試合と練習の違いもよく理解していないように思えます。
親や主催者のエゴで、無理に試合をさせなくてもイイと思います。
何より、何人も頭を打っていたので危ないと思いました。

>有段者、高校生の部
これは僕の身勝手な意見なんですが、
初段、二段、三段・・・
高校1年、高校2年・・・
という区切りにしないで『有段者の部』で区切ってはどうでしょうか?
たかの先輩が出場した墨田区はそういう区分らしいので。
そうすれば、僕も高校生・大学生に混じって試合が出来る。
ただそれだけなんですけどね~。

話は変わって。。。

この子はシンノスケと言います。
講道館(春日クラブ)で練習していますが、北区民なので参加していました。
この時はベスト8で敢闘賞だったかな?
楽しそうに試合をしているのが印象的でした。
ちなみに、同小(同じ小学校)です。
東十条小学校の後輩なんですねscissors
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嘉納治五郎師範の幼名も「しんのすけ」だったそうですから、
彼も将来はもしかするかも知れません。

コチラは僕の小学校2年生の頃。
ぷりぷりしています。
子供のくせ、この頃から既に巴投なんか仕掛けていました。
Photo

ある年、東京は大雪snowでした。
僕の膝上まで雪が積もり、交通はパニック状態でした。
僕はライバルの田崎元久(現・道都大学監督)に破れ、
会場外で泣いていました。

父親が僕を探して出てきました。

父   「閉会式始まるぞ。早く戻れ!」
5669「2位の賞状なんかいらない!もう帰るcrying
父   「イイから早くもらってこい!!」

みるみるウチに積もる雪を見て、いつもははしゃぐ年頃なのに、
負けた悔しさで、全然そんな気になれませんでした。

またその翌日。。。
ウチに3枚しかない額縁に、その賞状が入れ替わっていました。
新しもの好きで、柔道はよく分からない母親は、真新しい賞状に代えたかったようで。。。

5669「2位の賞状なんか飾るな!」
母   「いいじゃない、頑張ったんだから」
5669「2位だから頑張ってない!」
母   「じゃあまた頑張ればいいじゃない」

そんな口論があったのを、なぜか今でも覚えています。
どんな大会でも必ず応援に来る父親
柔道にはあまり関心のない母親

程よくバランスがとれ、僕にはいい環境だったのかも知れません

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2008年5月21日 (水)

平爺を偲ぶ

前回は平爺との思い出(「平田鼎-寝業研究会-伝説編」)を書きました。

いつもの文章は、このブログを見ている多くの方に発信していますが、
今回限りは、天国にいる(もしかしたら地獄?)平爺に捧げたいと思います。

平田 先生
足立学園の道場で先生と出会って、もう20年近く刻が経とうとしています。
あの時の出会いが僕の柔道だけでなく、柔道に関わる人生そのものを
変えてしまうとは、その時は知る由もありませんでした。

先生から教わった6年間、足立学園での6年間、
これは僕の柔道の根幹を築いた6年間でした。

絶えず努力すること、堪え忍ぶ心、研究心、そして高専柔道。

僕は高校時代、先生の高名どころか、「高専柔道」という言葉すら、知りませんでした。
いつも驕り高ぶらず、マイペースで稽古をするので、
ただの爺さんだと思っていました。すいません。

「寝技は足だ、足を使え」
「十字は膝でとれ」
「馬鹿じゃ強くならん、勉強しろ」

「おやすみ~」(絞め落とすとき)
「空気は旨いか?!」(絞技から逃れたとき)
「おはようさん」(絞め落とされて、目が覚めたとき)

先生が仰った言葉は、頭の中に焼き付いています。

なかでも筑波大学への進学が決まったとき、先生は
「もう小室!なんて呼び捨てには出来ないな。立派になった」と仰いました。
何度止めてくれと言っても、先生は敬語で接するようになりましたね。
それが1つ、先生から僕への免許皆伝だったのかも知れません。

僕は先生から教わった技術をもって、大学で寝業師になりました。
この時、寝業師になったことが、僕の柔道観を変え、競技成績を押し上げました。

今僕がこうしていられるのは、間違いなく先生から教わった
高専柔道の技術があったからこそです。

そういえばひとつ、先生に謝らなければならないことがあります。
先生が教わった技術、これを勝手に「コムロック」(小室式固技)と名乗っています。

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これは先生から教わった高専柔道の技術です。
でもどういうわけか、こう呼ばれるようになり、また僕自身の愛称としても
「コムロック」が認知されるようになり、そのまま使わせていただいています。

講道館に勤務するようになり、全然知らない人から
「君が平田先生の弟子か!?」
「君のような寝技をするお爺さんが昔、講道館に来ていたよ」
「小室は生前の平田先生のような背中をしている」
そんな風に言われることがあり、嬉しくもあり、気恥ずかしい気もします。

先生が伝えてきた技術は、寝業研究会の皆さん、DVD映像が受け継ぎ、
また僕自身も、講道館に勤務しながら、高専柔道の技術を伝えていくこと、
これが僕なりの、恩返しだと思っています。

どうか天国から(もしかしたら地獄から)僕らを見守っていてください。

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2008年5月 7日 (水)

平田鼎-寝業研究会-伝説編

ラオスでお世話になった菊地先生が一時帰国しています。
そして僕に『平田鼎先生の追悼集』をくれました。

平田先生が亡くなられてもう10年くらいが経ちます。
そこで僕も、この追悼集をきっかけに平田先生について書いてみようと思います。

Sen3平田先生はこんなお爺さんでした。

平田先生との出会いは小学6年生の時でした。
東京・北区にある佑道館に所属していた僕は、
足立3中への進学を決めていました。

足立3中では実質、部活は行っていなくて、
部員は足立学園に移動し、高校生と練習していました。

なので僕も、佑道館の万代(まんだい)先生に連れられ、
足立学園に出稽古に行きました。
そこに平田先生は来ていました。

万代 「平田先生、この子をお願いします!」
5669 「お願いしますhappy02
平田 「お~お~任しとけ」

そんな会話があったことを覚えています。
そんな縁があって、僕は平田先生に可愛がられました。
可愛がられたと言っても、ご飯をご馳走になったとか、
お小遣いをもらったとか言う「可愛がり」ではなく、
『時津風部屋の可愛がり』と同じようなモンです。
 ※ビール瓶で殴られたりはしませんでしたけど・・・

僕たちは平田先生のことを平爺(ひらじい)と呼んでいました。
何気に徳原先生もコッソリ「平爺」と呼んでいました。

平爺伝説は沢山あります。
伝説のいくつかをご紹介しましょう。

>手ぬぐい
平爺は練習後、かならずシャワーを浴びます。
足立学園の道場は2階、シャワー室は1階です。
その間、道場からシャワー室まで手ぬぐい1つで移動します。
ほぼ全裸に近い格好です。

足立学園が男子校とはいえ、お母さんが来ることもありますし、
女性教諭もいます。僕らの時代は先の選抜体重別(女子78kg級)で
準優勝した平岡麻美選手もいました。
それでも手ぬぐい1つで校内を闊歩するのです。

ある時、平爺と剣道部の顧問が、シャワー室で一緒になりました。
平爺は腰が曲がり、よたよたと歩くのですが、不意に床に滑り、
大きく転倒しました。

『あ、死ぬ!』

剣道部の顧問(近藤先生)が思った瞬間、
パチーンという音と共に、受身をとった平爺がすっと立ち上がり、
何食わぬ顔で歩き出したそうです。

>戦争体験
ある先輩から、平爺の戦争体験を聞きました。
戦地で、銃の弾が切れ武器も失い、敵兵と相対したそうです。
平爺は咄嗟に引き込み、三角絞で相手を絞め落とし、難を逃れたとか。
この伝説は多分、眉唾です(笑)
でも、そんなことを高校生は信じてしまうほどの寝業師でした。

>クリーニング事件
平爺は道衣を洗わない人でした。
日が経過すると、それはもう溢れた牛乳を拭いた雑巾のような匂いすらしました。
当然、高校生は乱取りするのを嫌がりました。
だって臭いし、絞め落とされるから。

本人も、道衣の臭さに耐えかねると、平爺係(そういう係がありました)に
道衣の選択を頼むのです。僕の同期では、ヒロナリが平爺係でした。
Photo
ある時、平爺の道衣が見あたりませんでした。
平爺が来たら、すぐさま干してある道衣を差し出さなきゃなりません。
ヒロナリは焦り、咄嗟にキクちゃんの道衣を貸してしまいました。

平爺は昔の人です。
道衣のズボンはスパッツなんか穿きません。直です。

キクちゃんは怒りました。
キク「なんで勝手に貸すんだバカヤロー!」
ヒロ「だって無かったんだから仕方ないじゃないか」

そんなやりとりの末、ヒロナリが洗濯することで落着しました。
但し、洗濯機ではなくクリーニングに出して、アイロン掛けまでさせること。

僕らは道衣をクリーニングに出すなんて、聞いたこともなかったので、
大笑いしていました。
それでもクリーニング店に持っていったヒロナリ。
なんと引き受けてくれたそうで、キクちゃんの道衣はキレイにアイロン掛けされ、
戻ってきました。

>平爺ビデオ

ある時、誰かが「平爺がビデオ出したらしいよ」と言いました。
僕たちは大笑いし、誰一人としてそれを信じませんでした。


本当に僕たち、もちろん僕自身、卒業するまで平爺の偉大さを知りませんでした。
寝業好きの爺さん、話し好きの爺さん、たまに変な技を魅せる爺さん
その程度の存在でした無かったのです。

だから有名選手のように、ビデオを出すなんてあり得ない!
そう思って誰も信じなかったのです。

まさか本当に出していて、それ以前に、ある方面では神格化されるほど、
寝業の大家だとは知る由もありませんでした。

ただこのDVDを見て思ったことは、このDVDがあるから、
平爺が亡くなっても技術(映像)は消滅しない
とい思ったのです。

これは僕にとって強烈な印象を残しました。
だからこそ、僕も身体が動く今のウチに、
技術を解説し、それを自ら披露したものを
形に遺しておきたい。そう思ったのです。

少し大げさな話しではありますが、
今日、交通事故か何かで僕が死んだとしても、
コムロック、袖車絞といった技術はある程度、伝承されていく。
特に柔道界では山嵐なみに消滅しかかっている
袖車絞という技術が、実戦的な技術として紹介され、
またそれを実践で極めた映像として残っている。
それって結構、重要なことだと思っています。

最後に、僕が寝業で施している技術はそう多くありません。
袖車絞、コムロック、あとは腕挫十字固と横四方固くらいでしょうか。

柔術を学び、色んな技術を吸収してきましたが、
結局、今現在、僕が一本を取れる技術は
平爺から教わった高専柔道の技術が殆どです。

そう思うと、平爺には感謝しきれない部分と、
高専柔道の奥深さを感じずにはいられません。

次回は僕も、平爺へ追悼文を書きたいと思います。


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2008年4月 7日 (月)

08 選抜体重別

選抜体重別選手権大会が行われました。
オリンピックイヤーの今年は注目度、緊張度も最高レベルだったと思います。
なぜかこのサイトも、いつもと比べ倍のアクセスが記録されていました。
オリンピックイヤーの今年は注目度、緊張度も最高レベルだったと思います。

この大会は、足立学園の恩師・徳原勉が
「この大会に出れたら褒めてやる」
と言った大会でして、体重別では国内最高レベルの大会です。
僕は高校卒業時、この大会に出ることを1つの目標としていました。

しかしコレがいけなかった。
目標が出るだけだったんですよね。。。。
初回:中村行成選手に優勢負け ※シドニー 代表選考
2回目:園田隆二選手に一本負け(内股)
3回目:内柴正人選手に一本負け(一本背負投) ※アテネ 代表選考

こんな感じで全てが初戦敗退でした。
まぁそんなレベルなんです。

では雑感をいくつか

■野村選手

前人未踏のオリンピック4連覇、やはり見てみたかったです。
そしてまだまだ魅力ある柔道を世界の舞台で見たかったです。
でも怪我をして、そこから調子を落としてしまったようですね。
平岡は後輩です。筑波大男子としては初の金メダル。
頑張って獲ってきてもらいましょう!
ちなみに先日、平岡と寝技勝負しましたが、まだ勝てましたむふっ指でOK

■66kg級

自分の階級はやはり気になります。
内柴、一時期スランプでしたが、ここに来て調子を上げました。
秋本も良かったと思うのですが、やはり怪我が多かったでしょうか?
内柴には頑張ってもらいたいです目指せ2連覇!

■筑波勢

何気に5人も筑波大関係者が出ます。
男子(平岡、金丸、小野)
女子(佐藤、谷本)
僕が入学したとき、男子学生には強化選手が居ませんでした。
「筑波って女子が強い大学でしょ?」
と言われるのが悔しかった学生時代を過ごしていました。
最も低迷した時期です。
そこからよくぞ這い上がってきましたね。

■100kg超級

後輩の生田が頑張っていました。
高井を瞬殺したそうですね。
でも康生にはいつもキレイにやられちゃいます。
その康生も、ハッキリ言ってクビの皮はもう切れていると思います。
可哀想ですけど。
でも、奥さんが可愛いから良いよねハート達(複数ハート)

■48kg級

福見、負けちゃいましたね。応援していましたが残念。
昨年に引き続き、谷さんは優勝できませんでした。
しかも今回は山岸選手が完封しました。凄いですね。
山岸選手の世界挑戦も見てみたいです。
ハッキリ言えば、この大会、すでに代表は谷選手で決まっていたと思いますが、
選手はどんなモチベーションで試合に臨めばいいのでしょうか。。。
それにしても、山岸選手は可愛いですね。

■上野順

気の毒です。
嘉納杯、ドイツ国際、選抜と3大会で優勝し、
谷本にも直接2勝しても落選ですか。どうしようもないですね。
本当に気の毒です。
その分、谷本は頑張らなきゃいけませんね。目指せ2連覇!

■平岡麻美選手

女子78kg級の選手です。男子60kg級の平岡じゃないですよ。
実は彼女、足立3中の後輩です。唯一の女子部員でした。
彼女には高校生時代、寝技は特に教えてあげましたし、稽古もつけました。
学生時代は筑波にまで来てくれて、稽古をしていました。
なので密かに応援している選手ですが、
堂々の準優勝!
すでに統廃合で無くなってしまいましたが、 実は名門・足立3中でした。

■選考システム
代表選考はいつも紛糾しますよね。
ポイントシステムにしたらどうでしょうか?
選抜を前に、代表が決定するほど点差が開いていたら、
先に代表を発表してしまう。
そうしたら、選手も大会に出るようになりますよね。
しかも透明性も増すと思います。

■親子柔道大会
ところ変わって横浜市では親子柔道大会が開催されていました。
この大会、面白い7人制の団体戦なんです。
先鋒:小学1年
次鋒:小学2年
5将:小学3年
中堅:小学4年
3将:小学5年
副将:小学6年
大将:親
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この親ってところが面白いですよね。
春日からは2チーム出て、3位とベスト16に入りました。
Aチームなら優勝しちゃうと思いきや、朝飛道場は抜群に強く、完敗でした。

僕が出るとなると、今から種まきをしてあせあせ(飛び散る汗)
順調に育っても7年後になります。
その頃になったらもう、結構弱くなっていそうですね。

帰りにベイサイドマリーナでお買い物をして帰りました。
ナイキのランニングシューズをまた衝動買いしてしまいました。。。
来年、東京マラソンに挑戦してみようと企てています。
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2008年4月 1日 (火)

インドネシア記(中編)

3/2
昨夜23時頃、鮫島元成先生が到着する。
昨年、岡山で行われた形講習会ででご一緒させていただいたが、
可愛がってもらっていて、とても心強い。

ところで、昨夜からずっと付近では大音響のBGMが鳴り響いている。
半端な騒音ではない。
変なテンポだし、大音響だし、早朝でも全く構わず流されているので、
かなりのストレスになるsweat02
どうやらコレはイスラム教関係のモノらしい。
我慢するしかないが、遠征や合宿には必ず持参していた
【耳栓】を今回は忘れてしまった。これが悔やまれる。。。

朝食後、安斎先生が到着。
安斎先生は協力隊OBで、現在もそのままインドネシアで仕事をしている。
今回は通訳としてお手伝いしてもらった。
Photo

講習は鮫島先生が基本に忠実な指導を行い、
僕は逆に寝技の目新しいテクニックを紹介した。
ラオスと違い、半分ずつなので非常に楽だ。
しかも鮫島先生は、柔道指導者向けの本を出しているだけあって、
僕自身、受講生になった気持ちで勉強させていただいた。
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鮫島先生はとにかく柔道が好きで、そして指導も好きだ。
放っておいたら、全部指導しちゃいそうな勢いがある。
この講習期間中も、ずっと柔道の話しだけを繰り返した。
それもまた柔道好きの僕には楽しく、そして勉強になった。

ところで、チロトでは本当に毎日雨が降り続いている。
聞くところによると、米なんかは年間、3回くらい収穫できるらしい。
芝生も、人工芝かな?と思うくらい、青々していた。

雨の中を歩くとなぜか、
「レイニーブルーもーをー、終わったはずなのにnote」(徳永英明「レイニーブルー」)
を口ずさんでしまう。


3/3
チロトでの講習も淡々と日程を消化していく。
午前と午後、それぞれ3時間ほどの講習だが、
お互いネタが豊富なので苦労はしない。
受講生もかなりタイトなスケジュールだが、熱心に受講している。

昼過ぎ、僕は失神するかのように深い眠りに落ちていた。

その間、バリ島から仙石先生が来てくれた。
仙石先生は今回、講師兼通訳としても協力してくれた。

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仙石先生は定年後、バリ島に移り住み、現地の人に柔道を指導している。
協力できる方は是非どうぞ。柔道で世界と手をつなぐ育成クラブ

仙石先生と鮫島先生は、故・高田先生(講道館指導員)を偲び、
夜遅くまで語り合っていた。
その時、話を聞きながらポテトチップスを食べていた。
それが元で、後で大変なことになる。。。sweat02

僕の方はといえば、お土産に持参したDVD「ザ・コムロック」を上映する。
受講生には安斎先生が通訳しながら説明してくれたが、
試合のシーンではかなり盛り上がっていた。

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2008年3月17日 (月)

近代柔道『入門!一流の極意』

柔道選手の夢といえば、試合で活躍し
『近代柔道に載る』というのがあると思います。

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僕も中学3年時、全中で3位になったときは
1ヶ月後が待ち遠しくて、指折り数えていました。

強化選手名簿に室宏二』と掲載されたときは、
訂正文を載せてくれと、ハガキを出したことさえあります。

そんな近代柔道、最近は買うこともなく、
職場に置いてあるのをサラッと読む程度にしていました。
でも今月号は買ってください!

なぜかというと『入門!一流の極意』というコーナーに僕が出ます。
2ヶ月に渡って、袖車絞とコムロックを紹介します。
もちろん、コムロックなんて技名はないので、適当に変えていますけど。

Photo

インドネシアから帰国したその日、下痢で脱水状態にありましたが、
頑張って撮影すること4時間、記者さんも疲労しきっていました。

現役時代から通算しても、柔道が地味なせいか、
日本一になるような活躍をしても、記事になるときはとても小さかったです。
むしろ柔道家なのに、同じ出版社である格闘技通信に載る方が大きくて。。。

でも今回は6ページです。
もちろん、過去最高記録。

受け手は今回、塚崎信彦(東洋大2年)にお願いしました。
佑道館の後輩であり、教え子です。

アマゾンで買えば、海外にでも届けてくれますし、
速達サービスなら翌日届きます。

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2008年1月24日 (木)

少年柔道の掛け逃げ

小学生の試合を見ていると、頻繁に見られるのが掛け逃げ攻撃
強いと言われる選手でも、掛け逃げを多用する選手がいます。

軽量級であれば、組み際に左右の一本背負投、袖釣込腰
中・重量級は払腰と内股の連続攻撃
いずれも立って投げるつもりがなく、前傾で倒れ込みます。

柔道の基本(理想)はしっかり組んで、技を掛けきること。

そんなことは、柔道に携わる選手なら誰でも知っていることです。
それでも、勝つためにスタイルを変えてしまうのでしょうね。
得るモノの少ない、目先の勝利にとらわれて。。。

※ちなみに高校に進学し、国際ルールが導入されると、
 こういった掛け逃げ選手はルールによって淘汰されていきます。。。

親御さんと話していても、指導目的のギャップを強く感じます。
礼儀や体力増進、基本の習得が当初の目的であったのに、
次第に競技志向に傾倒していきます。
それがオリンピックの影響だったり、小学生の試合数増加だったり、
色々な要素はあると思います。

『先生、うちの子が勝てないんです。うちの子を勝たせてください』

そんな言葉はもう聞き飽きました!(怒)

今は勝てなくても良いんです。
その場しのぎで勝たせたところで、すぐに選手として潰れるんです。

今大事なのは、
努力する習慣を身につけること。
一本を取れるしっかりとした技を身につけること。
そして人間性を育むこと。

それではここで、小中学生で勝つことの
メリット・デメリットをまとめてみたいと思います。

<メリット>
1.強豪校への進学(特待生制度)
2.自信がつく
3.チヤホヤされる(デメリットかな?)

<デメリット>
1.怪我が多くなる→それを無理して稽古する→慢性の怪我→競技力低下
2.燃え尽き症候群の危険性
3.天狗になる危険性
4.過度の期待、プレッシャーに潰される
5.勝ち続けているため、柔道スタイルが固定される(変えられない)

こんな感じでしょうか。
補足があったら先輩方、お願いします。

※親御さんからの意見もありましたらお願いします。
 僕はまだ親になったことがないので、
 こういう偏った意見になっちゃうのかも知れません。

更に論より証拠です。
僕は中学3年生の時、全中(1992)で3位になりました。

その当時の各階級ベスト4を見た後、
3年後のインターハイ7年後のインカレの結果と照らし合わせてみて下さい。
特に、小学生から高校、中学から大学など、
1世代飛ばしてみて下さい。
半分以上の名前が無いことが解るはずです。
小学生時代からずっと勝ち続けて、世界まで上り詰めた選手は、
同じ年代で言えば井上康生選手ぐらいです。
(e-JUDO様、ありがとうございます!)

進学していけば、それだけレベルも高くなり、怪我も増え、
勝ち続けることの難しさを痛感していきます。
そして多くの選手が、心身共に燃え尽きてしまいます。

そんな訳で、長々と説明しましたが、
小学生のウチは、そんなに勝ちに拘らなくて良いのです。

それでも勝ちたい場合、攻略法を教えましょう。

それは[寝技]です!

掛けられて潰れて、取れる寝技技術がないから判定で逃げられるのです。
一本を取れる技術があったら、怖くて掛け逃げできませんよね。

だから僕は、掛け逃げ選手が大好物です。
掛け逃げ選手には、寝技!これ定番です。

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2008年1月22日 (火)

「スマイル〜聖夜の奇跡〜」

僕はよく、夜中に一人で映画を見に行く。

レイトショーは値段も1200円と安く、人も少ない。
落ち着いて見れて安いので、お得感は高い。
行きつけの亀有のMOVIX(アリオ亀有内)で映画を見た後は、
環七沿いにあるつけ麺や「なんつっ亭」に寄るのがお決まりコース。

最近は週末どころか、平日の仕事後にでも見に行くことがあり、
さすがに『これ以上、没頭したらマニアっぽいな』と自分を懸念している。

先日は年も明けたのに
『スマイル~聖夜の奇跡~』を観てきた。
(※年末に見ることを薦める)
内容を詳しく言ってしまうと面白味に欠けてしまうので程々に。。。

実はたまたま持っていたティッシュを2コ、
使い切ってしまうほど泣いてしまった。
泣き所だけじゃなく、笑えたところもあった。
笑いどころはとても古典的で、嫌いな人もいるかも知れない。

主人公は北海道の小学校教師になり、
アイスホッケーチームの監督に就任した。
しかしアイスホッケーはド素人だ。

柔道でもよくある話しだが『名選手が名監督とは限らない』

競技レベルが低かったり、知識に乏しい人ほど、
研究心も旺盛で、既成概念にとらわれることなく、
自由な発想で練習を工夫し、そして素晴らしい選手を育てることがある。

この映画でもそうだった。
主人公は大学で児童心理学を学び、そしてタップダンサーを目指していた。

まず着目したのは【音】だった。
強いチームにはリズムがあり、攻撃パターンがある。
先生はまず、子供達にタップのリズムを教え込む。
試合中もずっと、そのリズムをタップで聴かせる。

もう一つはチームのリズム
メンバーが多く、選手交代の多いチームほど、交代席の付近の
氷がエッジで削られ、氷の山となっていく。
先生は単に「あの氷の山を、相手より山積みにしよう!」とだけ伝える。

弱小チームはリズムを手に入れ、少しずつ強くなる。

そして一番凄いところは選手を乗せること。
「お前達は最高だぁぁーーー!」
と絶叫しているところにもあるように、先生は叱ったり脅したりしない。

僕自身、試合会場で選手を励ますことはあっても、
柔道のことで叱ったり、脅かす意味が分からない。
少しでもリラックスさせ、自信を持った状態で送り出してあげる。
監督にはそんな仕事があると思う。

「言っておくけど俺たち、一度も勝ったことがないんだぜ」
「コイツはチビで下手でメガネで、何も良いところがない」

そういう子供達に対し、先生は
「なんでも良いから話を聞け、これを実行したら絶対勝てる」
「チビで下手でメガネで、良いところは何もないかもしれないけど、
だからこそ、ホッケーだけは良いかもしれない!」
そう言って子供達を、半分は騙しながらも自信を付けさせていく。

アイスホッケード素人の監督が、子供達をどこまで押し上げることが出来るのか。
そして恋の行方は!?

単なる映画としてだけでなく、少年指導に携わる者としても、
共感し学び得るモノがある映画だと、僕は思う。そして泣ける。
もう上映はしていないと思いますが、
DVDになったら是非、ご覧になって下さい。

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2008年1月13日 (日)

守屋先輩の名札板

足立学園の在校生は知らないかもしれない。
多分知らないだろうな。。。

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足立学園の徳原先生は、
「学舎や国士舘に対抗するには中学生から6年強化する必要がある」
ということで、小学6年生をスカウトし、
足立3中に入学させて、練習を足立学園で行いました。

その初代が僕たちの代でした。
(足立学園中は翌年、設立されました)

初代の僕たちは中2,中3の先輩がいません。
(中3生が1人だけいましたけど)

高校生の集団に、中学1年だけが加入したので、とても可愛がってもらいました。
特に僕は中学1年の頃、どう見ても小学生だったので、
本当に良く可愛がってもらいました。
それはOBからも同じでした。

ある先輩は、いつも頬が真っ赤な僕を見て『ペコ』と名付けました。
不二家のペコちゃんと似ていたんだそうです。

その先輩は守屋正一郎と言い、現役時代は
八王子高校だった小川直也選手に勝ったりしていたそうです。

ペコ「先輩、小川選手に勝ったそうですね?!」
守屋「あいつはあの頃、大したこと無かったんだよ。ペコと同じだな」
ペコ「ムキー!」

そんな感じでかまってくれていました。
アイスやご飯、ジュースもよく奢ってくれた覚えがあります。

なぜ大学まで柔道を続けなかったのかと聞くと、
『柔道なんかもううんざりだよ、男通しで抱き合って気持ち悪い(笑)』
そんな風に笑い飛ばしていました。豪快な人でした。

僕が大学院を卒業し、講師として就任すると、
まず目をひいたのが道場にある大きな名札板でした。
(名前なんて言うんでしょうか?)

徳原先生に聞くと、それは守屋先輩からの寄贈でした。
あれだけ大きな名札板になると、100万円位しちゃうそうです。

5669『さすが守屋先輩、太っ腹ですね♪今何をしているんですか?』

徳原『死んだよ。電気関係の仕事をしてて、感電しちゃってな・・・』

衝撃でした。
まだ40代前半だったと思います。
守屋先輩の遺産(?)慰謝料(?)を母親が持ってきて、

「あの子があったのは、足立学園柔道部があってのことです」
といって、大金を遺していってくれたそうです。
それがあの名札板です。

そういった先輩達の支えがあって、いまの活動があるという現実。
それを現役生はもちろんのこと、他のOBもよく覚えておいて下さい。

正月、少しずつ増えていく戦績と生徒の名札
それを見て守屋先輩を思い出しました。合掌。

もうじき、高校選手権の予選(1/20)、そして都大会(1/27)が始まります。

頑張れ足立学園生!

 



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2007年12月31日 (月)

2007を振り返って

今年もあと僅かとなって参りました。

僕は仕事納めと同時に、足立学園時代の教え子と
スノーボードに行ってきました。
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僕にとっては、彼らと過ごした時間、そして彼ら自身の存在が、
とても大切な財産となっています。
この絆を大切に、この行事は恒例にしたいなと思っています。

さて、今年1年を振り返って、僕自身、どんなニュースがあったのか、
箇条書きにしていきたいと思います。

■アフリカ遠征■
いきなり降って湧いてきた話ですが、タンザニアモザンビーク
各1週間行ってきました。
初めて、選手としてではなく、指導者として行く海外、そして初アフリカ大陸。
初めてばかりでしたが、カルチャーショックをいくつも受け、
そして学ぶことが多々ありました。

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そして自分自身『一度は海外で勝負しなきゃ!』と
強く思いました。
何らかの形で、海外に居を構え、指導する機会を狙っていこうと思っています。

■VWポロSLを購入■
長年連れ添ってきた、mccスマートがくたびれてきました。
特徴のある車で、愛着もあったのですが、
最近は故障とその修理費に悩まされてきました。

もう1年乗って、買い換えをと思っていましたが、
いい加減エンジン関係が悪くなってきたので、
一足早く買い換えてしまいました。ありがとうスマート君!

今はフォルクスワーゲンのポロ(スポーツライン)に乗っています。
本革シート、HDDナビ、ハッキリ言ってかなり背伸びをしてしまいました。
道楽ですな。でもかなり気に入っています。

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■ブログ消滅→動画を導入■
ある日突然、このブログがハッキングされ、消去されてしまいました。
現在、犯人を捜査中。。。。

有志のアドバイスから、いくつかのブログを復元できたことは
感動するくらい嬉しいモノでしたが、
同時に、復元できなかった記事が残念でなりません。

現在、作業停滞中のブック版『コムロック』では、
コラムのページもふんだんに盛り込む予定です。
自分の中での会心作、形にして遺していきたいと思っています。

そしてその反面、ネット界で動画の流行をこのサイトにも反映しました。
最新の映像だけでなく、過去のVHSテープをデジタル化し、公開しました。

今回も、2001年太平洋選手権の初戦をココに公開したいと思います。
危うく、初戦敗退するところでした。。。

■試合は2試合■
公式戦はたったの2試合でした。
全国高段者大会(動画リンク)東京都高段者大会です。
それぞれ絞技で快勝しましたが、勝負が好きな僕には物足りなかったです。
公式戦ではありませんでしたがタンザニア本土、ザンジバルで
挑戦した掛け試合は、スリルがあってとても楽しかったです。
2008年は、高段者大会だけでなく、もう少し挑戦の場を増やしたいと思います。
マスターズとか、国際大会とかですね。応援してください。

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2007年12月11日 (火)

代表戦(後編)

それでは後編になります。(前編はコチラ)

代表戦として思い出深い試合をいくつか。

■高校3年のインターハイ予選■
都大会の準々決勝戦、僕たちは世田谷学園と対戦しました。
その年の世田谷は、金鷲旗でも優勝しており、
例年通り、優勝候補でした。

戦前、僕は徳原先生のこう聞かれました。
「宏二、本郷との勝負、左の相四つだけど、できるか?」

本郷選手は翌年、インターハイ(重量級)でも優勝しており、
その時のポイントゲッターでもありました。しかも僕と同じ左組です。
苦戦は免れませんでした。

しかし、僕は即答しました。「やれます!」と。
次鋒で出場した僕は、組み手に妥協することなく、
しつこく寝技に引き込み、引き分けに持ち込みました。

そのほかの選手も、妥協することなく接戦を凌ぎきり、
0対0の代表戦までもつれ込みました。

世田谷の代表は本郷選手、足立学園の代表は田崎選手が出ました。

軽量級軍団の足立学園は、爆発的な破壊力がありません。
唯一、全国レベルの中重量級と勝負できるのは、
田崎選手しかいませんでした。
まちがいなく、足立学園の切り札でした。
僕たちはこの大一番、彼に託しました。

結果は判定負け。僕たちは最後まで、
世田谷、国士舘の壁を破ることが出来ませんでした。

今でも、田崎(今は道都大学の監督)と話すと、この話題になります。
彼の柔道人生において、もっとも悔やまれる試合がソレらしいです。

でも、ウチにとっての切り札、世田谷にとっての切り札、
それぞれが出て、結果が負けなら仕方ないと、僕は思います。
「世田谷を倒してインターハイにいける!」
そう思えた、貴重な一瞬でした。

■教員3年目の代表戦■
それからちょうど10年後、僕は足立学園の教員になりました。
高校1年生から教え始め、その子達が3年生になったとき、
良いチームが育ちました。

都大会の準決勝、国士舘との対戦です。
1-1の同点で、この試合も代表戦になりました。

誰を選ぶのか?
徳原先生と考えました。

国士舘は重量級がそろっていましたが、中量級の西田選手を擁しています。
足立学園の子達は、軽量ですが重量級との試合を苦にしません。
逆に技もキレ、動きも速い西田選手のような選手が苦手だったりします。

代表戦は間違いなく、西田選手を予想していました。

対西田選手を想定したとき、足立学園には1つの切り札がありました。
ホームランバッター齋藤です。
彼は5月の団体戦、西田選手に一本勝ちしていました。
しかし、その日の試合でも西田選手と対戦していたのですが、
ここでは組み手を完封されてしまい、逆に負けてしまいました。
もう一度やっても、おそらく適わない。

得点をあげたキャプテンの関矢もいましたが、彼は副将で出ており、
スタミナを消耗していました。

眠れる天才、太田はメンタルが弱いので代表戦にはちょっと。。。。

残ったのは河野雄司でした。
(インターハイ73kg級3位、全日本ジュニア2位、現ジュニア強化選手)
中学時代から、大きな舞台で勝負している彼なら気持ちも強い。
鍛え上げられた身体は西田にも力負けはしない、
破壊力のある肩車なら、もしかしたら一発決まるかもしれない。

しかし、結果的には大内刈から内股への連絡技で、
河野は大きく弧を描き、一本負けを喫しました。

やっと辿り着いたチャンス、なかなか越えられない壁。
選手の悲しみ、徳原先生、僕の悔しさは相当なモノでした。
徳原先生が涙を流す姿を見たのは、久しぶりでした。

足立学園生の諸君
徳原先生を団体戦で全国に連れて行ってやってくれ!

■シロクマ君■
先日、足立学園に小学生を連れて行ってきました。
僕が教えていた中学生達も、中学3年になり、高校生になり、
知らない顔もチラホラいるようになりました。

あの時のシロクマも、もう今春、卒業します。
あの時の経験が、彼にどう影響したのか、
それは今となっては計り知れませんが、
教員となって、初めて経験した思い出深い代表戦でもあります。